「遠野物語」−遠野物語拾遺より 新潮文庫
p168〜 村の乱暴者
「土淵村に治吉ゴンボと云う男が居た。此郷でゴンボとは酒乱の者や悪態をする者のことを言うが、この治吉も丈高く、顔かたちが凄い上に殊に筋骨の逞しい男であった。
市日に遠野町の建屋という酒屋で酒を飲んで居るところへ、気仙から来たという武者修行の武士が入って来た。下郎を一人つれて、風呂敷包みをワシコに背負い、滝縞の袴を穿いた偉丈夫である。治吉は此侍を見るなり、俺こそは此郷きっての武芸者だ。さあ試合をしようと言った。侍は心得たと、家来に持たせた荷物の中から木刀を取り出させる。治吉はもともとただの百姓で剣術などは少しも知らず、酒の酔いに任せて暴言を吐いただけであるから、相手のこの物々しい様子を見て窃かに驚いたが、もう仕方が無い。今日で命はないものだと覚悟して、見る通り俺は獲物を持ち合わさぬが、何でも有合せの物で宜しいかと念を押した。
侍の方は、望みの物で差支えないと答えたから、治吉は酒屋の裏手へ獲物を探しに行って、小便をしながら其辺を見廻すと、其処に五寸角ほどの木材が一本転がって居た。よしこれで撲ちのめしてくれようと言って、此材木を持ち、襷掛けで元の場所に引返した。武芸者の方では、治吉が裏へ行ったきり帰りが遅いので逃げたものと思って高を括り、頻りに高言を吐いて居たところであったから、治吉の出立ちを見て驚いた様子である。
治吉は此態を素早く見て取ったから、さあ武芸者、木刀などでは面白くない。真剣で来いと例の材木を軽々と振回して見せた。すると何と思ったのか其侍は、からりと木刀を棄て、いや先生、試合の儀はどうかお取り止め下さい。其代りに、拙者が酒を買い申そうと、酒五升を買って治吉に差出した。治吉は益々笠に掛って、いやならぬ、どうしても試合をすると言って威張って見せると、侍はそれを真に受けて怖がり、ひたすら詫びを言って居たが、とうとう家来と一しょにこそこそと逃げさった。天下の武芸者を負かした上に、五升の酒をただで飲んだと言って、治吉は益々自慢してならなかったそうな。」
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なかなか胆の据わった乱暴者。