「日本近世の起源ー戦国乱世から徳川の平和へー」 渡辺京二 洋泉社 2011年
日本近世は何を護ったか p306〜
「俗に元和偃武というけれども、徳川期もまだ十七世紀のうちは、戦国の余風というか相当に荒っぽい時代だったようだ。一六五二年オランダ使節に随行して参府したスウェーデン人ヴィルマンは、大坂近郊で「百五十人ほどが磔刑になって、首五十が鉄棒に突き差されている現場を通過した」。「これは全部、大坂城に謀叛したもの」だとヴィルマンは言うが、正雪の慶安事件は前年のことだし、いったいどんな事件なのか私には見当もつかない。それにしても百五十人である。駿府から江尻へ向かう道中では「肩先から胴まで斬られた男を目撃した」。男は「道傍に倒れて死んでいた」のである。
一六三一年、折から江戸滞在中のオランダ使節ヤンセンは宿の近くの橋の上に手指を切り落とされた罪人二十人がさらされているのを見た。「これは見るのは実に恐ろしいことだった。彼等がこの様に罰せられた理由は、彼等の頭の上に立ててある文書によれば、単なる盗みである」。
イギリス東インド会社のセーリスが一六一三年参府した時は、まだ大阪の陣の前のこととて、駿府の郊外で「たくさんの首をのせた断頭台」と「たくさんの十字架と、なおその上に縛りつけられたままの罪人の死体」、さらには試し斬りにされた屍体の数々を見た。セーリスは参府旅行に出る前、平戸で三件の死刑執行を見ている。一件は女が夫の留守中に二人の男と媾曳の約束をし、あいにく男たちが鉢合せして斬り合いになったものだが、領主松浦法印は即座に三人とも処刑を命じた。このときも試し斬りが行われ、三つの遺骸は「人の手ぐらいに小さな片々に斬りさかれた」という。その翌々日には女をかどわかして売った罪で三人の男が仕置きされた。またセーリスは盗人が刑場に向う光景も見たが、「その決心して、少しもしを怖れる風がない」のには感銘を受けた。この男は隣家の火事の際、米を一袋盗んだというのである。死はありふれた光景で、人びとはそれに動じることはなかった。カロンは「日本国民殊に無邪気のように見える婦人は、悲痛の色を示さず、従容泰然として死に就く」と言っている。
「世界がまだ若く、五世紀ほどもまえのころは、人生の出来事は、いまよりももっとくっきりしたかたちをみせていた。悲しみと喜びのあいだの。幸と不幸のあいだへのへだたりは、わたしたちの場合より大きかったようだ」。いうまでもなくホイジンガ『中世の秋』の書き出しである。「すべてが、多彩なかたちをとり、たえまない対照をみせて、ひとの心にのしかかる。それゆえに、日常生活はちくちくさすような情熱の暗示に満たされ、心の動きは、あるいは野放図な喜び、むごい残忍さ、また静かな心のなごみへと移り変わる」。「残忍さと慈悲深さの鋭い対照は、司法の分野ばかりではなく、生活の諸相にはっきりみてとれる。一方には貧しいもの、不具のものに対するおそろしいまでの残忍さ、他方には、心うたれるやさしさ」。「傲慢、貪欲、そして不貞、これら俗世の罪と、敬虔な心、強固な信心との謎に満ちた共存… これが、時代のひとつの倫理的資質だった。」
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