「おとぎの国の妖怪たち」 小泉八雲怪談集2 池田雅之 訳編 現代教養文庫(社会思想社)
子捨ての話 p12〜
「昔、出雲の国の持田浦という村に、一人の百姓が住んでいました。男はひどく貧しかったので、子どもなぞ持てるものではないと思っていました。
女房に赤ん坊が生まれると、そのたびに川に流し、村人の前では死んで生まれたと言いつくろっていました。赤ん坊は男の子のこともあり、女の子のこともありましたが、生まれればかならず、夜のうちに川に捨てられました。
こうして六人の子どもが殺されました。
しかし、年月がたつに連れて男の暮らし向きお豊かになっていきました。田畑を買い、いくらか蓄えもできました。そのころ、女房が七人目の子を産みました。男の子でした。男は言いました。。「ようやくわしらも子どもの一人くらいは養えるようになった。わしらが年をとった時に、面倒を見てくれる息子がいるでな。この子はずいぶんと器量がええことだから、ひとつ、育ててみることにするか」
子どもは日に日に大きくなっていきました。男はしだいにそれまでの自分の料簡が嘘のように思えてきました。わが子の可愛さが、日増しにしみじみと感じられるようになってきたのです。
夏のある夜、男は赤ん坊を抱いて庭にでてみました。子どもは生まれて五月(いつつき)になっていました。
その夜は大きな月が出て、いかにも美しい晩でしたので、男は思わず大きな声で言いました。
「ああ、今夜はめずらしいええ夜だ」
その時、赤ん坊が男をじっと見上げて、まるで大人のような口を利きました。
「お父っつあん、あんたがしまいにわたしを捨てなすった時も、今夜のように月のきれいな晩だったね」
そう言うと、赤ん坊はごくあたりまえの子どもらしい顔つきにもどって、それきり何も言いませんでした。
百姓は僧になりました。」
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2022年04月19日
ダイモン
「小林秀雄全集 第十一巻」− 近代繪畫 − 新潮社版 平成十三年
「惡魔的なもの」 p272〜
「ある時、ソクラテスはデルポイのアポロンの神殿の、有名な「汝自身を知れ」といふ銘に感じて、これを、自分の哲學の出發點とした、といふ話が、アリストテレスによつて、傳へられてゐる。事實だつたと考へてさしつかへはないであらう。ただ、神託を占ふのはソクラテスの力であつた。彼は、其處に、愚かな弱い人間どもよ、絶對に服従せよといふ命令を讀みもしなかつたし、又、己れ自身を探つてプロタゴラスの「萬物の尺度」を發見しようともしなかつた。
「パイドン」のなかに、ソクラテスの自叙傳とも言はれてゐる一節があつて、自分も若い頃には、世の所謂「自然の認識」といふものに熱中したことがあるが、やがて、さういふ探究には、「自分は不適當な、誰よりも不適當な男である事を悟つた。」と言つてゐる。凡そ在りと在るものを、對象化して、その生起と消滅との理由を合理的に説明するといふやり方に厭気がさしたと言ふのである。恐らく、彼は、謎めいたアポロンの神託に、アナクサゴラス流の理性(ヌース)に閉じ込められた世界からの出口を讀んだ。自己といふものを對象化して、合理的に觀察したり認識したりすることは出来ない。自己を知るのは自己に他ならないからだ。
しかし、この不安定な危險に滿ちた道だけが、人間に直接に經驗し得るものである。あらゆる存在は、直接には、心的な觀念として、形相として經驗される他はない。これがソクラテスの自己との對話の出發點をなす。だが、誤解してはならない。ソクラテスは、各人は各人の獨白を持つ紛糾した世界に甘んじたのではない。この世界を、萬能な理性に頼つたり、或は經驗的知識に頼つたりして、安易に始末をつけることを許すまいと決意したのである。その時、彼は、ダイモンの禁止の聲を聞いたのかも知れない。何故なら、さういふ道をとる方が正しいといふ證明は誰にもすることは出来ないのだから。
彼は、各人各説の對話劇の中心人物たらんと決意する。劇そのものを見極めようとする。何故各人の互いに違つた獨白が、集つて統一ある劇をなすか、彼は知らない。だが、その名づけ難い根底の理由とは、即ち各人の獨白を、互いに異なるものとする同じ根底の理由ではないのか。彼は、それを信ずる。そういふ信に生きることが、生きることであつて、ただ生きることでは充分でないのである。自己を語ることは容易である。自己を超えた精神と對話が始まらなければ、生きる深い理由は至れない。ソクラテスは、さういふ普遍的な對話劇を、善の或は徳の劇と呼びたかつたのである。」
(「講座現代倫理」、昭和三十三年二月)
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「惡魔的なもの」 p272〜
「ある時、ソクラテスはデルポイのアポロンの神殿の、有名な「汝自身を知れ」といふ銘に感じて、これを、自分の哲學の出發點とした、といふ話が、アリストテレスによつて、傳へられてゐる。事實だつたと考へてさしつかへはないであらう。ただ、神託を占ふのはソクラテスの力であつた。彼は、其處に、愚かな弱い人間どもよ、絶對に服従せよといふ命令を讀みもしなかつたし、又、己れ自身を探つてプロタゴラスの「萬物の尺度」を發見しようともしなかつた。
「パイドン」のなかに、ソクラテスの自叙傳とも言はれてゐる一節があつて、自分も若い頃には、世の所謂「自然の認識」といふものに熱中したことがあるが、やがて、さういふ探究には、「自分は不適當な、誰よりも不適當な男である事を悟つた。」と言つてゐる。凡そ在りと在るものを、對象化して、その生起と消滅との理由を合理的に説明するといふやり方に厭気がさしたと言ふのである。恐らく、彼は、謎めいたアポロンの神託に、アナクサゴラス流の理性(ヌース)に閉じ込められた世界からの出口を讀んだ。自己といふものを對象化して、合理的に觀察したり認識したりすることは出来ない。自己を知るのは自己に他ならないからだ。
しかし、この不安定な危險に滿ちた道だけが、人間に直接に經驗し得るものである。あらゆる存在は、直接には、心的な觀念として、形相として經驗される他はない。これがソクラテスの自己との對話の出發點をなす。だが、誤解してはならない。ソクラテスは、各人は各人の獨白を持つ紛糾した世界に甘んじたのではない。この世界を、萬能な理性に頼つたり、或は經驗的知識に頼つたりして、安易に始末をつけることを許すまいと決意したのである。その時、彼は、ダイモンの禁止の聲を聞いたのかも知れない。何故なら、さういふ道をとる方が正しいといふ證明は誰にもすることは出来ないのだから。
彼は、各人各説の對話劇の中心人物たらんと決意する。劇そのものを見極めようとする。何故各人の互いに違つた獨白が、集つて統一ある劇をなすか、彼は知らない。だが、その名づけ難い根底の理由とは、即ち各人の獨白を、互いに異なるものとする同じ根底の理由ではないのか。彼は、それを信ずる。そういふ信に生きることが、生きることであつて、ただ生きることでは充分でないのである。自己を語ることは容易である。自己を超えた精神と對話が始まらなければ、生きる深い理由は至れない。ソクラテスは、さういふ普遍的な對話劇を、善の或は徳の劇と呼びたかつたのである。」
(「講座現代倫理」、昭和三十三年二月)
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posted by Fukutake at 09:51| 日記
2022年04月18日
伊藤仁斎
「考えるヒント 2」小林秀雄 文春文庫 文藝春秋
哲学 p127〜
「…仁斎の「人ノ外ニ道ナク、道ノ外ニ人ナシ」の人とは、勿論、孔子の事である。自分が原典から直知したところによれば、孔子は、そう言いながら生きた人物であることは明白端的な事だと言うのだ。彼は、天も鬼神も死も語らなかった。「未ダ生ヲ知ラズ」と努力した人であった。
「論語」には、それだけの事がはっきり書かれ、その外に余計な事が書かれていないのなら、それを、男らしく信ずるがよいので、いったん信ずると決心した以上、学問には外に仔細はない筈である、と言うのが、仁斎学の基本であった。彼が朱子学に反対したのは、この道学には、孔子のそういう姿が埋没して了っていると見たからで、朱子学の合理主義に反対したという言い方は、今日の、合理主義という言葉の浅薄な使用を思えば、却って曖昧になる懼れがある。
この言葉を使うのなら、彼は、朱子学の合理主義が反省を欠いている事を看破したと言った方がいい。反省を止めた合理主義は、思想として薄弱である。彼は、これを、「大悟ノ下ニ奇特ナシ」と言った。朱子学は大悟している。
孔子という反省する人、考える人を失った観念で充たされている。彼は、大義大勇は、非合理的なものと考えたのではない。大義大勇も、これについて考えを止めぬ人がなければ、停滞自足して、死ぬと考えたのである。「徳ハ窮リナイモノ」であるから、窮りなく考えるを要する。出来上がった徳が貰えるものではない。考え直すから、思って新たに得るから徳は在るので、でなければ、徳というようなものは世の中にはない。仁斎の考えによれば、孔子が好学という事をしきりに強調した真義も其処にある。「性ノ善、恃ムベカラズ」とする。
先に、仁斎を、儒学での「ヒロソヒ」の開基と呼んでもよかろう、と、言ったのは、その意味だ。「士ハ賢ヲ希フ」というのは、宋学の方の言葉で、希賢はむしろ窮理の意味だが、仁斎の好学は、もっと純粋な意味での、孔子が敢えて好色に比した好学であった。従って、彼の学には、反知の主義は少しもない。必要としていない。知の力は、孔子が一と言っているように、「知ラズトスル」にある。…」
(文藝春秋 昭和三十八年一月)
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好学:疑いつづけ、考えつづける。」
哲学 p127〜
「…仁斎の「人ノ外ニ道ナク、道ノ外ニ人ナシ」の人とは、勿論、孔子の事である。自分が原典から直知したところによれば、孔子は、そう言いながら生きた人物であることは明白端的な事だと言うのだ。彼は、天も鬼神も死も語らなかった。「未ダ生ヲ知ラズ」と努力した人であった。
「論語」には、それだけの事がはっきり書かれ、その外に余計な事が書かれていないのなら、それを、男らしく信ずるがよいので、いったん信ずると決心した以上、学問には外に仔細はない筈である、と言うのが、仁斎学の基本であった。彼が朱子学に反対したのは、この道学には、孔子のそういう姿が埋没して了っていると見たからで、朱子学の合理主義に反対したという言い方は、今日の、合理主義という言葉の浅薄な使用を思えば、却って曖昧になる懼れがある。
この言葉を使うのなら、彼は、朱子学の合理主義が反省を欠いている事を看破したと言った方がいい。反省を止めた合理主義は、思想として薄弱である。彼は、これを、「大悟ノ下ニ奇特ナシ」と言った。朱子学は大悟している。
孔子という反省する人、考える人を失った観念で充たされている。彼は、大義大勇は、非合理的なものと考えたのではない。大義大勇も、これについて考えを止めぬ人がなければ、停滞自足して、死ぬと考えたのである。「徳ハ窮リナイモノ」であるから、窮りなく考えるを要する。出来上がった徳が貰えるものではない。考え直すから、思って新たに得るから徳は在るので、でなければ、徳というようなものは世の中にはない。仁斎の考えによれば、孔子が好学という事をしきりに強調した真義も其処にある。「性ノ善、恃ムベカラズ」とする。
先に、仁斎を、儒学での「ヒロソヒ」の開基と呼んでもよかろう、と、言ったのは、その意味だ。「士ハ賢ヲ希フ」というのは、宋学の方の言葉で、希賢はむしろ窮理の意味だが、仁斎の好学は、もっと純粋な意味での、孔子が敢えて好色に比した好学であった。従って、彼の学には、反知の主義は少しもない。必要としていない。知の力は、孔子が一と言っているように、「知ラズトスル」にある。…」
(文藝春秋 昭和三十八年一月)
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好学:疑いつづけ、考えつづける。」
posted by Fukutake at 07:36| 日記