2022年03月23日

「田中美知太郎全集 26」 筑摩書房 平成二年 

正義ー公共的偽善の問題 p75〜

 「われわれは『プロタゴラス』のうちに次のような文章を見つけるだろう。

   「正義その他の国民がもつべき徳について、人びとは何ぴとかが正義に反していると分かっていても、もしその人間が自分で自分のことを多くの人たちの面前で真実そのままに語るとしたら、ほかの場合には真実を語ることは正常心を保っていることにほかならないと考えても、この場合は正気の沙汰ではないと考えるだろう。そして人はすべて自分が正義を守っていることを、実際はそうであろうとあるまいと、とにかくそう公言しなければならないのであって、正義をよそおうことをしない者があるなら、それは正気を失った者なのだと主張するだろう。それはつまり正義をとにかく何らかの仕方で共有しないような者は誰ひとりあってはならないのであって、もしそういう者があるなら、それは人間のうちには入らないからだというわけなのである。」

これはわれわれを当惑させる文章であると言わなければならない。なぜなら、まず第一、われわれはすべて正義を共有していなければならないと言われているのに、他方ではわれわれは正義に外れることもありうるかのような想定をし、その仮定の下に重要な発言がされている。そしてそれが疑問の第二点となる。真実をそのまま語ることが一般には精神の健全さを示すものと解されているけれども、ただ、正義についてだけは、それは精神の健全さが失われたこととされる。ひとは正義に外れていても、またそれをひとに知られていても、その真実をそのまま「多数の人たちの面前で」公言してはならず、あくまでも白を切って正義を偽装しなければならないというのであるが、われわれにはすぐ納得できないことであり、それをむしろ常識的なこととし、そうでない行為を狂気の沙汰と見ることに対して、なぜそうなのかを怪しまずにはいられないだろう。まず後者の問題から考えてみると、クリティアスがアルキロコスを避難して言った次のような言葉がいくらかわれわれの助けになるかも知れない。

   「もしかしてわざわざ自分自身についてこのような評判の種になることをギリシャ人たちに向かって公表しなかったら、われわれはかれアルキロコスが女奴隷エニボの息子であるということも、また貧乏で生活に行き詰まった為にパロスを逃げ出してタソスに行ったことも、そこへ行ってもまた土地の者たちと仲違いを生じたことも、また更に友となった人たちをも仲違いしている人たちと同様に悪く言っていたことも、聞いて知ることもなかっただろう。またその上にかれに教えてもらわねば、かれのみだらな女性関係をわれわれは知ることもなかったろうし、彼が好色漢であり、不埒千万な男であることも知らなかったろう。そしてこれらよりももっと恥ずべき最大のこと、すなわち戦場において盾を棄てて逃亡した男だということも。だからアルキロコスは自分のためになるよい証人ではなかったのである。自分のためにこんな悪名を広め、こんな噂の種を残したのだから。」

 つまり恥の文化と呼ばれる特色をもつギリシャ人社会においては自分の恥辱となるようなことを人前で喋りちらすなどということは、およそ恥知らずな許すべからざる行為と見られたのではないかと考えられる。われわれ日本人も永い間「みっともない」ことを恐れる美の倫理に生き、古代ギリシャ人と恥の文化を共有して来たから、クリティアスのアルキロコス非難をある程度理解できるかも知れない。しかし、われわれには告白好きなところもあり、懺悔の教えも永い歴史をもってわれわれを教化して来たのであるから、反面においてクリティアスに同調できないところもあるかも知れない。また現在のわれわれは恥の文化どころか、恥知らずの文化のうちにあると言わるかも知れないのである。」

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posted by Fukutake at 08:07| 日記