嘆きの壁

「宮�ｱ市定全集　２０　ー菩薩蛮記ー」　岩波書房　１９９２年

イスラム世界　ーアラジンの怪灯ー　p３１１〜

　「一九三七年の秋、私は留学先のフランスから、はるばる中東へ向って旅立ち、バルカン、トルコを経て、シリア、レバノン、パレスチナ、イラク、さてはエジプトと、一月半ほどの間、単身で遍歴し、再びパリに舞い戻った。当時にあっては一種の壮挙とも言えそうな長旅であったが、私の所属する京大東洋史学教室には、最初の教授、桑原隲蔵博士このかた、中国史を研究するにはアラブ文化の理解が必要だという伝統的な考えがあり、それを私自身で実践してみたかったのである。

　この旅行中に私が気付いたことは、アラブ人には二種類あり、その一は年に永住してすっかり開化した文明アラブであり、他は田舎から出てきたばかりの素朴アラブである、文明人には個人主義の行きすぎる弱点があることは、二千年前、漢の司馬遷が『史記』の中でいみじくも喝破したように、
　　　衆闘に怯（きょう）にして、持刺（じし）に勇なり。
とあって、個人プレーを勇敢にやる国民は集団戦になると弱い　ー　これが小国イスラエルと何べん戦争しても巨大なアラブが勝てないことの説明にもなっている。決してアメリカが干渉するせいばかりではないのである。
　これに反しまだ農牧的な素朴アラブは気宇壮大で、人柄も正直で親切であり、はなはだ頼もしく思わせるものがあった。私はサウジアラビアには入ることが出来なかったが、イブン・サウド王の建国政策を伝聞していたので、素朴アラブの代表としてこの国の将来に多大の望みをいだいた。帰国してから私は旅行の印象を一書に纏めて出版したが（『菩薩蛮記』）、その中でいささか予言めいたことまで口走ったものである。

　それから三十余年たった今日、サウジアラビア王国は颯爽として世界の外交舞台に躍り出た。だからといって早速、君の予言が的中したな、などと言われると私は全く返答に窮する。何となれば私の予言は全然、あて外れであったからだ。私が待望したのは、こんなアラジンの怪灯に祈って奇跡を行うような、ひねくれた姿での登場ではなかったのである。

　私が、夢みたものは、アラブ的な王道であった。天然資源に恵まれない荒野に住むアラブの民は発憤して、世界から新知識を吸収し、国政改革を断行し、政教分離に踏みきり、婦人を解放し、教育を普及し、土地を改良し、貧富の懸隔を縮め。素朴民族の溌剌たる意気で都市の文明アラブを指導し、マホメットの偉業を再現することであったのだ。

　ところがその後のペルシャ湾沿岸における石油資源の開発は、私の夢を台無しにしてしまった。今まで地底に眠っていた原油の泥が高く売れ、労せずして現金が手に入る。もう政治や社会の改革はどうでもよく、ひたすら目前の名利を追いはじめた。そこに内部では現状維持のまま、国威を外に向って耀かそうという覇道的な考えすら生まれる。それが今度の石油戦略になったのだ。…」

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