2022年03月16日

日露戦争

「夏目漱石と戦争」 水川隆夫 平凡社新書 2010年

漱石の非戦の立場 p54〜

 「一九〇一(明治三十四)年三月十七日、大学予備門時代からの友人でベルリンへ留学していた立花銑太郎(当時学習院教授)から、ロンドンの漱石のもとへ手紙が届きました。病気のため帰国する途中で、今アルバート埠頭に停泊している常陸丸に乗っているというのです。漱石は早速見舞いに出かけました。
 立花はその日のことを、やはりベルリン留学中の芳賀矢一に宛てて船中から手紙で報告しました。その中に、

     戦争で日本負けよと夏目言ひ

という俳句を書き添えました。
 同じくベルリンの留学生仲間であった藤代素人は、後年「夏目君の片鱗」の中でこの句を紹介し、

    倫敦辺に迂路(うろ)付いてゐる、片々たる日本軽薄子の言動に嘔吐を催ほしていた君が、此奇矯の言を吐いた光景が目に見えるやうである。

と感想を記しています。しかし、この説明だけでは、「日本の軽薄子」とは具体的にどのような人物を指すのか、なぜ彼らの「言動に嘔吐を催ほして居た」ということが「戦争で日本負けよ」という意見につながるのかよくわかりません。
 漱石は、一九〇〇年十二月二十六日付けの妻鏡子宛の手紙に、

   留学生は少なく逗留のものは官吏商人にて皆小生抔(など)よりは金廻りのよき連中のみ羨ましき事はなけれども入らぬ地獄*抔に金を使ひ或は遊興費贅沢品に浮身をやつし居候事惜しき心持居た候彼等の金力あれば相応に必要の書籍を買ひ得られ候事と存候 其許(そこもと)も二十円位にては定めし困難と存候へども此方(こちら)の事も御考御辛防可成候(なさるべくそうろう)

と書いています。彼は、藤代らにも同じようなうっぷんを洩らしていたにちがいありません。漱石は「倫敦消息」其1(『ホトトギス』一九〇一年五月号)においても、「日本の紳士が徳育、体育、美育の点に於いて非常に欠乏して居る」ことを指摘し、「其紳士が如何に平気な顔をして得意であるか(中略)。彼等が如何に空虚であるか」を憤っています。「日本の軽薄子」とは、前記の鏡子宛の中の「官吏商人」にあたる者だと考えることができます。漱石は、日本がロシアと戦争をして勝ったとしても、利益を得るのは「官吏商人」だけであり、彼らがいっそう軽佻浮薄な言動を募らせるだけだと考えていたのです。」

地獄* 売春宿

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posted by Fukutake at 11:01| 日記