「宮ア市定全集 21 日本古代」 宮ア市定 岩波書店 1993年
日本の黎明 p365〜
「日本人、日本の国、または日本文化の基本はどうであったか。
日本の島々に人間が住みついたのは、一万年前か、六、七千年前か、そのあたりのことからすでにはっきりしない。またその文化が、周辺のどことよけいにつながりをもつのかも明らかでない。まことにおぼろげな日本のはじまりである。ややはっきりしてくるのは、数千年前の縄文文化からであるが、そのころは未開原始の社会生活であったけれども、以後徐々に進歩を重ねて、懸命によりよい生活を楽しもうと努力していた。
その間にも、周辺からいろいろな人種が、またさまざまな文化が入って来たのであろう。そのなかには、今日に至るまで、日本の国をささえている稲作の文化もあった。これは歴史を大きく変革させた。日本人は二〇〇〇年もまえから、原始的気分を脱けていく。それは弥生式文化を中心にした生活の開化であり、社会の発展であるが、すでに社会関係の上で、少数の支配的地位をしめるものと、これに支配される多数の民衆との分化が進んでいった。
前者は、その強い力をもとにして、朝鮮半島を経由する金属文化をとりいれてきた。久しい間、石器文化に沈潜していたのが、ようやく金属器を用いるようになった。青銅器はたいして日常の利器にいかされなかったにしても、鉄器が、有力者たちの日常利器として使われるに至った。
そのころには、小さい地域ごとに支配し、支配されるものの関係が、さらに規模をひろげて、国として固まっていった。国々はたがいに攻伐し、いわば弱肉強食の形で、併合や統一を進めていった。そうした統一国の王たるものが、三世紀から四世紀にかけて、この日本列島の各地におったらしいが、なかでも大和朝廷の勢力が圧倒的となり、その倭王こそ後に天皇とよばれるものになる。大和朝廷の力が、いつからめだって支配力を伸展したかは、これまでもいろいろ見解の相違があった。
その点は、中国の方で知っていた邪馬台国の所在地が、どこかということと関係する。大和朝廷の確立をはやめに認めるか、遅れて認めるかが、邪馬台国の大和説・九州説とにそれぞれ対応するわけなのである。
このあたりは歴史学と考古学との合体協力による研究の最も期待される部分である。いずれは、より多数の支持を得られるみかたが出てくるかもしれないが、今のところは、まだ軍配をどちらともあげかねるのである。
四世紀から五世紀の時代には、大和朝廷のいきおいめざましくなり、日本のうちの諸国を併合統一したのみならず、進んで朝鮮半島にも勢力を及ぼしている。大陸の進んだ文物がどしどしこちらの権力者のもとにもたらされてもいた。
言葉を文字に書写する方法も、こうした大陸との交渉が進んでいく間に、自然に会得されてきた。琉球をも含めて、日本列島上の人たちが用いていた言葉そのものは、じつにふるくから、周辺の言葉とは、よほど趣の異なったものとして成り立っていたが、中国の漢字を伝えるまでは、これを文字化することができずにいたのであった。
過去についての記憶も、最初はいっさい口誦の伝承によっていた。原始的信仰は、いつまでも人々の胸にあつくいだかれ、呪術や祭儀は一貫してさかんだったし、巫女の活躍もいちじるしく、政治の上にその影響力は大きかったが、そうした祭儀や習俗、眼前の事物や自然また地名などについて、そのいわれを説く上に、この当時の人たちは口誦の伝承をもっていた。それは各一族ごとに伝えられた。そういうものを骨子として神話もできたが、後世古代国家整備とともに、それも成文化され、やがていわゆる歴史となっていく。
大和朝廷は、その財的基礎を国内に深く据えていったが、皇室と若干の氏族との連合によるこの政権は、果たして破綻なしに、ひたすら伸びていくことができるだろうか。
(『日本の歴史』第一巻、一九五九年一月。「世界史からみた日本の夜明け」)
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