2022年03月12日

ハーンの文章読本

「さまよえる魂のうた」 小泉八雲コレクション 池田雅之編訳 ちくま文庫

文章作法の心得 p260〜

 「私は各学期に少なくとも一回は、文学の実作面と文学研究についての短い講義をしたいと思っている。こうした講義はみなさんにとって、一人の作家の特性に関する一回きりの講義よりもはるかに有効なあるものとなるであろうし、またそうなるにちがいない。私は実際にものを書く文筆家としても、もっぱら文学という難しい手仕事に年季奉公を重ねてきた者としての立場から、みなさんに話したいと思う。

 とはいえ、大工が「私は大工である」、また鍛冶屋が「私は鍛冶屋である」というように、私も「私は職人である」といっているだけなのだと理解していただきたい。そういったとしても、決して私が腕のいい職人だと主張しているのではない。私はたいへん下手くそな職人かもしれないが、それでも私は、自分のことを職人であるといってもよいはずである。

 大工がみなさんに「私は大工である」というとき、われわれは彼を大工だと信じてもよいが、それは彼が自分のことを腕のいい大工だと考えていることにはならない。彼の仕事の上手下手に関しては、その仕事に対して金を払う段になれば、そのときに判断すればよい。しかし、その男が不器用で怠け者の職人であろうと、町一番の大工であろうと、彼がみなさんの知らないことを教えることができるということは理解できよう。

 彼は道具の使い方やある製品に最適な材木の選び方を知っている。彼はごまかすかもしれないし、ぞんざいな仕事をするかもしれない。しかし、みなさんが彼から何かを学ぶことができるのは間違いない。なぜなら、彼は年季奉公を終え、絶えず手と目を実際に働かせることにより、大工の仕事がいかなるものかを知っているからである。
 この問題についての私の立場については、これぐらいにしておこう。さて、文学の創作に関して、誰もが犯しやすい二、三の誤った考え方を改めることから、講義を始めたいと思う。みなさんのすべてが、そのような誤りを犯しているとはいわないが、しかしそれらは、よく見受けられる誤りなのである。

 みなさんに注意を促したい最初の誤りは、創作に関することである。つまり、物語や詩を書くことは、教育を通して、あるいは本を読むことや理論に精通することによって学びことができるという、広く流布している誤りである。率直にいうと、唐突に思われるかもしれないが、教育が大工や鍛冶屋になるのに役立たないのと同様に、詩人や物語作家となるためにも、教育は何の助けにもならない。…」
“On compositon”(Life and Literature) 1917

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作文は手仕事。
posted by Fukutake at 07:55| 日記