「こころの処方箋」 河合隼雄 新潮文庫
人間理解は命がけの仕事である p86〜
「相手を理解するのは命がけの仕事だ。何と大げさなと思われた人もあるだろうが、私は、他人を真に理解するということは、命がけの仕事であると思っている。このことを認識せずに、「人間理解が大切だ」などと言っている人は、話が甘すぎるようである。…
(例えば)子どもが父母をなぐりたいと言ったとき、とめようとしたから失敗したので、そんなときは、やりたかったらやれ、というように対応してはどうかと考える人もあろう。そのときでも、「勝手にせよ」と突き放すことは、その子どものを理解していないからできることであって、今まで理解したふりをしていながら、最後になって知らぬ顔をしようとする、というので怒りを買うことになる。
「自殺したい」としつこくいう生徒にたまりかねて、先生が、「それほどやりたかったらやればいい」と応じ、その生徒が「あの先生は僕のことを理解してくれない」と嘆いた例がある。これなど、生徒の言葉どおりに反応することが、真の理解になるとは限らないことを示す典型である。このように言葉にレベルで、「とめる」か「とめない」か、勝手にやらせるかなどと考えるのではなく、真に理解するということは、こちらの「いのち」をかけて向き合わぬとできないのである。
このように大それたことではなく、一見簡単そうに見えることでも、理解することの困難さを示す例をあげてみよう。たとえば、夫はお金を派手に使う方だが、妻は倹約家である場合を考えてみよう。両者が「協力関係」にあるときは、適当にバランスがとれてうまくゆくだろう。しかし、二人が正面から向き合って、理解し合うということになったとき、妻が「倹約の美徳」を説き、夫が真にそれを理解しようとすると、今までの自分の生き方は、まったく馬鹿げており、それを妻のおかげで支えてきた、と考えねばならなくなってくるのではなかろうか。いやそんなことはない、倹約はケチに通じるのであって、自分が派手にお金を使ってきたので、他人の評判もよく保つことができたのだ、などと言いだすと、妻は「私のことをあなたは本当に理解していない」と言い出すのではなかろうか。
うっかり他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。これはやはり「命がけ」と表現していいことではなかろうか。実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである。
以上のことがわかってくると、だから「人間理解」などということはできるだけしないようにしよう、という結論を出す人も居られるだろう。それも結構が、私にはせっかく生まれてきたのだから、死ぬまでには、ときどき「命がけの」ことをやってみないと面白くないのでは、と思っている。」
----
人間個人を理解できるのか