「福翁自伝」 福沢諭吉 著 富田正文 校訂 岩波文庫
咸臨丸 p108〜
「さて、それから船が出て、ずっと北の方に乗り出した。その咸臨丸というのは百馬力の船であるから、航海中始終石炭を焚くということは出来ない。ただ港を出るとき這入るときに焚くだけで、沖に出れば帆前船、というのは、石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。その帆前船に乗って太平洋を渡るのであるから、それはそれは毎日暴風で、艀船(はしけぶね)が四艘あったが、激浪のために二艘も取られてしもうた。その時は、私は艦長の家来であるから、艦長のために始終左右の用を弁じていた。艦長は船の艫(とも)の方の部屋にいるので、ある日、朝起きて、いつもの通り用を弁じましょうと思って艫の部屋に行った、ところがその部屋に、弗(ドルラル)が何百枚か何千枚か知れぬほど散乱している。如何したのかと思うと、前夜の大嵐で、袋に入れて押し入れの中に積み上げてあった弗、定めし錠も卸してあったに違いないが、劇しい船の動揺で、弗の袋が戸を押し破って外に散乱したものと見える。これは大変なことと思って、直ぐに引返して舳(おもて)の方にいる公用方の吉岡勇平にその次第を告げると、同人も大いに驚き、場所に駆け付け、私も加勢してそのドルを拾い集めて袋に入れて元の通りに戸棚に入れたことがあるが、元来船中にこんな事の起るその次第は、当時外国為替ということについて一寸とも考えがないので、旅をすれば金が居る、金が要れば金を持って行くという極簡単な話で、何万弗だか知れない弗を、袋などに入れて艦長の部屋に蔵めて置いたその金が、嵐のために溢れ出たというような奇談を生じたのである。
それでも大抵四十年前の事情が分かりましょう。今ならば一向訳けない。為替で一寸と送って遣れば、何の正金を船に積んで行く必要なないが、商売思想のない昔の武家は大抵こんなものである。航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打ち上げる。今でも私は覚えているが、甲板の下にいると上に四角な窓があるので、船が傾くとその窓から大洋の立浪が能く見える。それは大層な波で、船体が三十七、八度傾くということは毎度のことであった。四十五度傾くと沈むというけれども、幸い大きな災いもなくただその航路を進んで行く。進んで行く中に、何も見えるものはないその中で持って、一度帆前船に会うたことがあった。ソレはアメリカの船で、シナ人を乗せて行くのだというその船を一艘見た切り、外には何も見ない。」
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