「増補 漱石と落語」 水川隆夫 平凡社ライブラリー 2000年
漱石の浅草 p19〜
「当時(明治初期)、浅草公園やその周辺には、多くの寄席が集まっていた。少し時期は後になるが、明治十二(一八七九)年二月刊行の「講談浄瑠璃落語定席一覧表」(天理図書館蔵)を見ると、「浅草区之部」にはのちに、関東大震災で焼けた並木亭など二十一軒の席が載せられている。金之助(漱石)らが一時住んだ寿町にも巴亭(ともえてい)という席の名が見える。寄席に対する金之助の興味は、この浅草時代に芽生えたのである。
また、金之助は、この時代に、多くの大道芸に接した。「彼岸過迄」には、田川敬太郎が祖父から聞いたり、蔵の中の草双紙を見たりして知った昔の浅草の繁華を想像するところがある。
「彼は小供の時分によく江戸時代の浅草を知ってゐる彼の祖父(ぢい)さんから、しばしば観音様の繁華を耳にした。仲見世だの、奥山だの、並木だの駒片だの、色々云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さへあった。広小路だの菜飯とか田楽を食わせるすみ屋という洒落た家があるとか、駒片の御堂の前の綺麗な縄暖簾を下げた鰌屋(どせうや)は昔しから名代(なだい)なものだとか、食物(くいもの)の話も大分聞かされたが、凡ての中で最も敬太郎の頭を刺戟したものは、長井兵助の居合抜と、脇差をぐいぐい呑んで見せる豆蔵と、江州伊吹山の麓にゐる前足が四つで後足が六つある大蟇(おほがま)の干し固めたのであった。夫等(それら)には蔵の二階の長持の中にある草双紙の絵解が、子供の想像に都合の好いような説明を幾何(いくら)でも与へてくれた。一本歯の下駄を穿いた儘(まま)、小さい三宝の上に曲(しや)がんだ男が、襷掛(たすきがけ)で身体より高く反り返った刀を抜かうとする所や、大きな蝦蟇の上に胡座をかいて、児雷也や魔法か何か使ってゐる所や、顔より大きさうな天眼鏡を持った白い髯の爺さんが、唐机の前に坐って、平突張(へいつくば)ったちょん髷を上から見下ろす所や、大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでゐた。斯(か)ういふ訳で敬太郎の頭に映る観音の境内には、歴史的に妖嬌陸離たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎(かげろ)ってゐたのである。」(「停車場」十六)
この草双紙の記憶は非常に鮮明であり、これは、金之助が少年時代に実家の土蔵の中で実際に見た記憶を描いたものにちがいない。しかし、明治四十年代に大学を卒業した敬太郎が「想像の浅草」しか知らなかったのに反して、金之助は、長井兵輔や豆蔵などの大道芸を現実に見たのである。…
漱石の俳句に、
春風や永井兵助の人だかり(明治二十九年)
居合抜けば燕ひらりと身をかわす(同)
抜くは長井兵助の太刀春の風(明治三十年)
などがあり、彼がこの大道芸を春ののどかな風景として楽しんだことを示している。」
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幼き日の漱石が見た浅草