2022年03月04日

文巧者 井伏鱒二

「小林秀雄全集 第二巻」− Xへの手紙− 新潮社版 平成十三年

井伏鱒二の作品について p41〜

 「井伏鱒二が「改造」二月號に、「丹下氏邸」といふ小説を書いてゐます。なかなかの傑作だと思ひます。
 私は、彼の作品に就いて、未だ一度もまともな意見を述べた事がないので、これを機會に書いて見ようと思ひます。…
 彼の作品に對して、下らない定説があります。それは彼の文學はナンセンス文學だといふ説です。彼は、少々許り風變りな、甘つたれてゐるが間が抜けてて面白い語法を發明した男だといふのです。…

 作品を讀む人々は、各自の力に應じて作者が作品に盛つた夢を辿ります。作品の鑑賞とは作者の夢がどれだけの深さに辿れるかといふ問題に外なりません。だから、人々は、作品から各自の持つてゐる處だけをもらふのだ、と言つてもいいので、大小説も駄小説も等しく面白がる事が出来る。つまり同じ物を讀んでいるのだ、一般讀者には傑作愚作の區別はないと言つても過言ではない。尤もこんなものの言ひ方は大變危険ですが、人々が覺えこんだ色々な概念の尺度で單純に傑作愚作を辨別して胃るといふ事と、自分の力である作品をどの程度まで辿つたかと考へてみる事との間には、大きな溝がある事は確かな事ですし、又この溝が一般にはなかなか気附かれない事も確かだと思ひます。

 井伏鱒二の作品は、みな洵(まこと)に平明素朴な外觀を呈してをります。かういふ外感を呈している作品は、深く辿る餘地がない様に思はれ勝ちなもので、事實、彼の作品に對する世評はみなこの平明素朴とみえる世界に展開されてゐるのです。

 彼の文章は決して平明でも素朴でもありません。大變複雑で、意識的に隅々まで構成されてゐるものです。若い作家のうちでは、彼は文字の布置に就いて最も心を勞してゐるものの一人です、彼は文章には通達しております。瑣細な言葉を光らせる術も、どぎつい色を暈(ぼか)す術も、見事に體得してゐます。
 人々は、彼の文章の複雜を見ないのでせうか。そりや見ない事はありません、少し注意すれば、否應なく眼に映るのですから。つまり見ないのと同じ事になるのです、と言ふのは、彼が文字をあやつつてゐる手元を少しも見ようとしないからです。手元をみないから、彼の文章の獨特な機構をナンセンスと斷して了ふのです。もつと簡明な言葉で言ふなら、彼の獨特な文字を彼の心の機構として辿らずに、單なる装飾とみて了ふのです。一般に作品の技巧を、作者の意識の機能としてみる時に、作品は非常に難解なものとなるのが定めでして、彼の作品をナンセンス文學だなどと言つてゐるうちは、彼の作品はいかにも平明素朴なのです。」

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posted by Fukutake at 08:14| 日記

繁栄の不幸

「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年 

ぜいたくな不幸 p62〜

 「節約とか倹約とか言うことが言われるようになった。何だかほっとした気持ちがしないでもない。というのは、今までは無理にぜいたくをさせられていたようなところがあったからだ。わたしはうっかりして電灯をつけっ放しにしておくことが度々で、いつでも叱られ通しである。これはあるいは子供のときから続いているのかとも思う。わたしの母は日本が極度の貧乏国であった明治十年代の生まれであるから、生活上の実際教訓による倹約の熟練家のようなところがある。だから、わたしのうっかりした無駄づかいをなかなか許してくれない。ところがそんなわたしも他の若い諸君といっしょに生活することがあると、つけっ放しの電灯を消したくなってしまう。何だかケチケチしているようでみっともないなと、時には恥ずかしく思いながら、つい倹約家になってしまう。これもあるいは仕方のないことかも知れない。何しろわたしたちのような明治時代の貧乏国に生まれ戦時中その最低生活を通り抜けてきた年代の者には、実生活によって否応なしに倹約家に仕立てられてしまうのが、一般だからである。だから、急に日本が経済大国となり、国民総生産でも個人所得でも世界の最高位に迫るということになっても、それにうまく適応できないところがある。倹約は時代遅れの悪徳であり、もっとぜいたくで豊かな生活をしなけえばならないと言われても、ただ当惑するばかりである。自分のケチ根性を恥ながら、何となく身につかないぜいたくをさせられた、ということにもなる。だから今あらためて質素倹約を言われると、やっとわが家にもどった感じで何かほっとするわけかも知れない。

 といっても、ぜいたくに慣れるということもそうむずかしいわけではなく、わたしたちの生活も知らぬ間にぜいたくになってしまう。最初トイレットペーパーが買い溜めの対象となったのも、象徴的である。つまり、水洗便所が普及していなければそんなことは起こらなかっただろう。戦時中の雑炊食堂やさつまいもの配給に長い行列とつくったのとくらべると、そこには大きな格差を認めなければならないだろう。物がないといことは大変なことなのである。これまでは物価高ということだけがやかましく言われていたが、考えようによっては物が高くても、とにかくいくらでも好きな時に買えるのは、やはり有難いことと言わなければならないだろう。高い物は買わないとか、買い控えるとかいうことで、何とかやっていけるからだ、しかし物がないということはもっと困難なことになり、場合によっては絶体絶命の深刻事となるかも知れない。トイレットペーパー騒ぎが起こったとき、その情報がわたしたちのところに届くのは恐らく一番遅れてであろうから、出かけて行っても何も買えずにもどるのが当たり前である。一生の中に二度もこんな経験をしなければならないとは、と戦時中を思い出して家の者はなさけないという顔をする。」

(昭和四十九年 文藝春秋二月号 巻頭随筆)

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posted by Fukutake at 08:09| 日記