「自省録」 マルクス・アウレーリウス 神谷恵美子訳 岩波文庫
第八章 虚栄心 p123〜
「一 つぎのこともまた虚栄心を棄てるのに役立つ。君の生涯全体、あるいは少なくとも君の若いとき以来の生涯を、哲学者として生きたとするわけにはもういかない、という事実だ。多くの他人や君自身にも明らかなことだが、君は哲学から遠く離れている。だから君は面目を失い、もはや容易なことでは哲学者としての名声をかちうることはできない。根底の条件からしてこれに反しているのだ。ゆえにもし君の問題の所在を真に理解したのならば、人が君のことをなんと思うかなどと気にするのは止めて、君の余生が長かろうと短かろうと、これを自然の欲するがままに生きることができたなら、それで満足せよ。したがって自然がなにを欲するかをよく考え、ほかのことに気を散らすな。君も経験して知っているように、今まで君はどれだけ道を踏み迷ったことか知れない。そして結局どこにも真の生活は見つからなかったのだ。それは三段論法をあやつることもなく、富にもなく、名声にもなく、享楽にもなく、どこにもない。ではどこにあるのか。人間の(内なる)自然の求めるところをなすにある。ではいかにしてこれをなすか。自己の衝動や行動の源泉として幾つかの信条を持つもとによって、いかなる信条(ドグマ)か。善と悪に関するもので、たとえば人間を正しく、節制的に、雄々しく、自由にしないものは、いかなるものといえども人間にとって善きものではない、ということや、人間を上記の反対にしないものは、いかなるものといえども人間にとってわるいものではない、というがごときである。
なによりもまず、いらいらするな。なぜならすべては宇宙の自然に従っているのだ。そしてまもなく君は何物でもなくなり、どこにもいなくなる。ちょうどハードリアーヌスもアウグストゥスもいなくなってしまったように。つぎに自分の任務にじっと目を注ぎ、とくとながめるがよい。そして君は善き人間であらねばならぬことを思い起し、人間の(内なる)自然の要求するところをわき目もふらずにやれ。また君にもっとも正しく思われるように語れ。ただし善意をもって、つつましく、うわべを取りつくろうことなしに。」
------
イライラするな