2022年03月15日

日露戦争と暗殺

「夏目漱石と戦争」 水川隆夫 平凡社新書 2010年

漱石と日露戦争 p197〜

 「漱石の蔵書に『安重根事件公判速記録』(一九一〇年三月二十八日 満洲日日新聞社刊)があります。東北大学附属図書館漱石文庫所蔵の同書には、「材料として進呈 夏目先生 伊藤好望」という贈呈者からの書き入れがあります。伊藤好望は、満鉄が経営していた満州日日新聞社の社員、伊藤幸次郎のペンネームです。彼は、満韓旅行前の八月十七日に中村是公の紹介で漱石宅を来訪したり、旅行中に大連で漱石に講演を依頼して承諾させたりしています。「材料として進呈」とあるのは、『門』に「夫が帰宅後の会話の材料として、伊藤公を引合に出す」とあるのを読んで、『門』の「材料として進呈」するという意味をこめたもんでしょう。

 安重根の第一回公判は、一九一〇(明治四十三)年二月七日に旅順の関東都督府高等法院で開かれました。以後連日開廷されて、十日の第四回公判で検察官の論告・求刑(死刑)がおこなわれ、十二日の第五回公判で弁護人の最終弁論と被告による最後の申立てがありました。そして、結審から二日後の二月十四日に、安重根に死刑の判決が言い渡されました。なお、死刑の執行は三月二十六日でした。『公判速記録』は、公判中の裁判官・検察官・弁護人・被告・証人など関係者のすべての発言を記録したものです。

 漱石がこの書をどれほど読んだのかよくわかりませんが、私は、「どうして、まあ殺されたんでせう」という御米の疑問は漱石の疑問でもあり、少なくとも安重根の最後の申立ての部分は読んだのではないかと推測しています。

 安重根は申立ての中で、検察官や弁護人は、被告は伊藤公の施政方針や日露保護条約を誤解していると言われたが自分は決して誤解していないこと、日本天皇のロシアに対する宣戦の詔勅には東洋の平和を意地し韓国の独立を強固ならしむる旨があったので、韓国人は日本を信頼し希望をもったが、伊藤公の施政の誤りから今日の悲境が生まれたこと、日韓保護条約は伊藤公が韓国の宮中に参内し脅迫によって締結させたものであり、その後も、皇帝を廃位し、義兵や農民などを多数虐殺したこと、自分は伊藤公を私的な感情によって殺したのではなく、義兵として戦い、捕虜としてここに来ているのだから、本来は日本人だけに裁かれるのではなく、国際公法、万国公法によって審判を受けるべきであったことなどを述べています。『公判速記録』に接したことは、どれほどかはわかりませんが、漱石の朝鮮認識の深まりをもたらしたものと思われます。

 『門』執筆中の五月二十五日に、宮下太吉が爆発物製造の容疑で松本署に逮捕され、六月一日には、湯河原で幸徳秋水と管野スガが逮捕され、六月三日にその記事が各紙に出ました。大逆事件と呼ばれる無政府主義者や社会主義者の大弾圧事件のはじまりでした。」

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posted by Fukutake at 08:03| 日記

2022年03月14日

川上音二郎

「明治劇談 ランプの下にて」   岡本綺堂著 岩波文庫 1993年

p202〜

 「その七月(一八九四年、明治二十七年)には、日清戦争が始まった。この戦争はわが演劇史の上にも記録すべき重大の出来事であった。書生芝居とか壮士芝居とかオッペケ芝居とか呼ばれていた各種劇団が、いわゆる新演劇としてここにいよいよその地盤を踏み固めたのである。この戦争では、在来の歌舞伎俳優らが書生芝居と相対抗して甚だしい敗北を招いたのであった。

 戦争が起こると同時に、大小劇場では競って戦争劇を上演することになったが、そのなかでもこういう機会をつかむのには抜け目のない川上音二郎は、その九月、浅草座で真っ先に戦争劇を上演した。日本の新聞記者が捕虜になって、李鴻章の前に牽き出されて気焔を吐くというような場面が主となっていて、他は新聞の戦争記事の切り抜きのような、芝居らしくもないものであったが、真っ先に際物を出しただけにその人気は素晴らしいもので、川上と藤沢とが新聞記者に扮していたが、高田実の李鴻章が非常に評判がよかった。高田はそれで売出したのである。水野好美や伊井蓉峰も加入していた。戦争の場では、実弾に擬した南京花火をぱちぱち飛ばして、しきりに観客を脅かしたりして、この興行は大成功であった。

 それに倣って、所々の小芝居でも戦争劇を続々上演するようになったので、大劇場でも動かずにはいられなくなった。明治座は十月、歌舞伎座はでは十一月興行に、いずれも新作の戦争劇を上演した。明治座の「会津土産明治組重」は竹柴其水の作、維新の会津戦争から今度の日清戦争までを連続して脚色した通し狂言で、むかしの戦いと今の戦いとを対照して見せたようなものであった。その中で、築地のシナ人の別れが面白く、左団次のシナ人と秀調の女房とが好評であったが、肝腎の日清戦争の場は妙な格好をした軍人が大勢出るので打(ぶ)ち毀してしまった。歌舞伎座の「海軍連勝日章旗」は桜痴居士の作、これは大島公使の談判から原田重吉の平壌玄武門先登を脚色したもので、団十郎は大島公使と御用船の水夫と原田重吉の父の三役に扮し、菊五郎は原田重吉に扮したが、初めから仕舞いまで殆ど劇的の場面がないので、その当時新聞紙上を賑わしていた原田重吉の功名譚という以外には何の興味もひかなかった。…」

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この戦争劇競争は、結局書生側の勝利に帰した。
posted by Fukutake at 07:59| 日記

2022年03月13日

日本の夜明け

「宮ア市定全集 21 日本古代」 宮ア市定 岩波書店 1993年

日本の黎明 p365〜

 「日本人、日本の国、または日本文化の基本はどうであったか。
 日本の島々に人間が住みついたのは、一万年前か、六、七千年前か、そのあたりのことからすでにはっきりしない。またその文化が、周辺のどことよけいにつながりをもつのかも明らかでない。まことにおぼろげな日本のはじまりである。ややはっきりしてくるのは、数千年前の縄文文化からであるが、そのころは未開原始の社会生活であったけれども、以後徐々に進歩を重ねて、懸命によりよい生活を楽しもうと努力していた。

 その間にも、周辺からいろいろな人種が、またさまざまな文化が入って来たのであろう。そのなかには、今日に至るまで、日本の国をささえている稲作の文化もあった。これは歴史を大きく変革させた。日本人は二〇〇〇年もまえから、原始的気分を脱けていく。それは弥生式文化を中心にした生活の開化であり、社会の発展であるが、すでに社会関係の上で、少数の支配的地位をしめるものと、これに支配される多数の民衆との分化が進んでいった。

 前者は、その強い力をもとにして、朝鮮半島を経由する金属文化をとりいれてきた。久しい間、石器文化に沈潜していたのが、ようやく金属器を用いるようになった。青銅器はたいして日常の利器にいかされなかったにしても、鉄器が、有力者たちの日常利器として使われるに至った。
 そのころには、小さい地域ごとに支配し、支配されるものの関係が、さらに規模をひろげて、国として固まっていった。国々はたがいに攻伐し、いわば弱肉強食の形で、併合や統一を進めていった。そうした統一国の王たるものが、三世紀から四世紀にかけて、この日本列島の各地におったらしいが、なかでも大和朝廷の勢力が圧倒的となり、その倭王こそ後に天皇とよばれるものになる。大和朝廷の力が、いつからめだって支配力を伸展したかは、これまでもいろいろ見解の相違があった。

 その点は、中国の方で知っていた邪馬台国の所在地が、どこかということと関係する。大和朝廷の確立をはやめに認めるか、遅れて認めるかが、邪馬台国の大和説・九州説とにそれぞれ対応するわけなのである。
 このあたりは歴史学と考古学との合体協力による研究の最も期待される部分である。いずれは、より多数の支持を得られるみかたが出てくるかもしれないが、今のところは、まだ軍配をどちらともあげかねるのである。

 四世紀から五世紀の時代には、大和朝廷のいきおいめざましくなり、日本のうちの諸国を併合統一したのみならず、進んで朝鮮半島にも勢力を及ぼしている。大陸の進んだ文物がどしどしこちらの権力者のもとにもたらされてもいた。
 言葉を文字に書写する方法も、こうした大陸との交渉が進んでいく間に、自然に会得されてきた。琉球をも含めて、日本列島上の人たちが用いていた言葉そのものは、じつにふるくから、周辺の言葉とは、よほど趣の異なったものとして成り立っていたが、中国の漢字を伝えるまでは、これを文字化することができずにいたのであった。

 過去についての記憶も、最初はいっさい口誦の伝承によっていた。原始的信仰は、いつまでも人々の胸にあつくいだかれ、呪術や祭儀は一貫してさかんだったし、巫女の活躍もいちじるしく、政治の上にその影響力は大きかったが、そうした祭儀や習俗、眼前の事物や自然また地名などについて、そのいわれを説く上に、この当時の人たちは口誦の伝承をもっていた。それは各一族ごとに伝えられた。そういうものを骨子として神話もできたが、後世古代国家整備とともに、それも成文化され、やがていわゆる歴史となっていく。
 大和朝廷は、その財的基礎を国内に深く据えていったが、皇室と若干の氏族との連合によるこの政権は、果たして破綻なしに、ひたすら伸びていくことができるだろうか。

(『日本の歴史』第一巻、一九五九年一月。「世界史からみた日本の夜明け」)

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posted by Fukutake at 09:35| 日記