「面白半分」 宮武外骨 河出文庫
むしろ悪を勧めよ p42〜
「人というものは元来依怙地なのだから、他人が西向けといえば東向き、秘密だといえば聞きたがる。これは何人も免れないところの性情である。
人生教育のこともこれと同理であって、今の教育家は無暗に善をなせ善をなせと、口を酸っぱくして頻(しきり)に喧(やかま)しく教育しているが、その効能が少ない。我輩が思うにはいくら教育家が善をさせようと力味(りきん)だところで、現今のごとく、人の模範となるべき輩(はい)があらん限りの悪事を働いて、国家の利益と国民の福祉を踏み付けにしている有様では骨折って善の教育をするだけが損である。現に国民の代表たる代議士でさえ白昼堂々と悪事を働く世の中じゃないか。彼らとても、もとより家庭や学校で悪いことをしろと教育せられたわけではなく、みな善の教育を受けた者であるが、それにもかかわらず悪事を働くのは、これこそ天性の依怙地が然らしむるところである。こんな依怙地な人間どもにいくら善をせよといったところでその効能はない。かえって余計に依怙地になって悪事をするばかりである。
今日の社会は多くの人間がみな悪事を働いているのであるから、よしたまたま真面目に善事をしようとする者があっても、その境遇が悪事をなさしめることになるのだから仕方がない。亜聖パウロもこんなことをいっている。
善は我すなわち我が肉におらざるを知る。そは願うところ我にあれども善を行うことを得ざればなり。我願うところの善はこれを行わず、かえって願わざるところの悪はこれを行えり。パウロでさえもその良心は依怙地の性に勝つことができなかったと見える。さればまして依怙地の強い下品の人間どもが、善をなせといわれてもやはり悪事をするのはやむをえないことである。
だからいやしくも国民全体を善に導かんとならば、よろしく悪事をなすことを奨励すべしである。そうすれば彼らはまた依怙地になって、みな競って善をなそうとするに違いない。
もっともそうなれば、十年一日のごとく廉(やす)月給で馬鹿正直に勤めているような教員どもは、訓導たるの資格がないから、ドシドシ放逐してしまって。教職はなるべく悪事に卓越した人間を選び、読本等もむろん改訂して、さかんに石川五右衛門や鼠小僧などの遺跡を研究さすがよい。
どうだヘッポコども、真面目にこの名案を実行してみる気はないか。物は試しじゃ。もしも実績が挙がらなかったところで元々の話で、悪社会は依然たる悪社会であるだけじゃないか。
こんな極端論を唱えたこともあった。」
(大正六年五月発行「面白半分」より)
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屁理屈だが、肯首させるものがある。
2022年03月16日
日露戦争
「夏目漱石と戦争」 水川隆夫 平凡社新書 2010年
漱石の非戦の立場 p54〜
「一九〇一(明治三十四)年三月十七日、大学予備門時代からの友人でベルリンへ留学していた立花銑太郎(当時学習院教授)から、ロンドンの漱石のもとへ手紙が届きました。病気のため帰国する途中で、今アルバート埠頭に停泊している常陸丸に乗っているというのです。漱石は早速見舞いに出かけました。
立花はその日のことを、やはりベルリン留学中の芳賀矢一に宛てて船中から手紙で報告しました。その中に、
戦争で日本負けよと夏目言ひ
という俳句を書き添えました。
同じくベルリンの留学生仲間であった藤代素人は、後年「夏目君の片鱗」の中でこの句を紹介し、
倫敦辺に迂路(うろ)付いてゐる、片々たる日本軽薄子の言動に嘔吐を催ほしていた君が、此奇矯の言を吐いた光景が目に見えるやうである。
と感想を記しています。しかし、この説明だけでは、「日本の軽薄子」とは具体的にどのような人物を指すのか、なぜ彼らの「言動に嘔吐を催ほして居た」ということが「戦争で日本負けよ」という意見につながるのかよくわかりません。
漱石は、一九〇〇年十二月二十六日付けの妻鏡子宛の手紙に、
留学生は少なく逗留のものは官吏商人にて皆小生抔(など)よりは金廻りのよき連中のみ羨ましき事はなけれども入らぬ地獄*抔に金を使ひ或は遊興費贅沢品に浮身をやつし居候事惜しき心持居た候彼等の金力あれば相応に必要の書籍を買ひ得られ候事と存候 其許(そこもと)も二十円位にては定めし困難と存候へども此方(こちら)の事も御考御辛防可成候(なさるべくそうろう)
と書いています。彼は、藤代らにも同じようなうっぷんを洩らしていたにちがいありません。漱石は「倫敦消息」其1(『ホトトギス』一九〇一年五月号)においても、「日本の紳士が徳育、体育、美育の点に於いて非常に欠乏して居る」ことを指摘し、「其紳士が如何に平気な顔をして得意であるか(中略)。彼等が如何に空虚であるか」を憤っています。「日本の軽薄子」とは、前記の鏡子宛の中の「官吏商人」にあたる者だと考えることができます。漱石は、日本がロシアと戦争をして勝ったとしても、利益を得るのは「官吏商人」だけであり、彼らがいっそう軽佻浮薄な言動を募らせるだけだと考えていたのです。」
地獄* 売春宿
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漱石の非戦の立場 p54〜
「一九〇一(明治三十四)年三月十七日、大学予備門時代からの友人でベルリンへ留学していた立花銑太郎(当時学習院教授)から、ロンドンの漱石のもとへ手紙が届きました。病気のため帰国する途中で、今アルバート埠頭に停泊している常陸丸に乗っているというのです。漱石は早速見舞いに出かけました。
立花はその日のことを、やはりベルリン留学中の芳賀矢一に宛てて船中から手紙で報告しました。その中に、
戦争で日本負けよと夏目言ひ
という俳句を書き添えました。
同じくベルリンの留学生仲間であった藤代素人は、後年「夏目君の片鱗」の中でこの句を紹介し、
倫敦辺に迂路(うろ)付いてゐる、片々たる日本軽薄子の言動に嘔吐を催ほしていた君が、此奇矯の言を吐いた光景が目に見えるやうである。
と感想を記しています。しかし、この説明だけでは、「日本の軽薄子」とは具体的にどのような人物を指すのか、なぜ彼らの「言動に嘔吐を催ほして居た」ということが「戦争で日本負けよ」という意見につながるのかよくわかりません。
漱石は、一九〇〇年十二月二十六日付けの妻鏡子宛の手紙に、
留学生は少なく逗留のものは官吏商人にて皆小生抔(など)よりは金廻りのよき連中のみ羨ましき事はなけれども入らぬ地獄*抔に金を使ひ或は遊興費贅沢品に浮身をやつし居候事惜しき心持居た候彼等の金力あれば相応に必要の書籍を買ひ得られ候事と存候 其許(そこもと)も二十円位にては定めし困難と存候へども此方(こちら)の事も御考御辛防可成候(なさるべくそうろう)
と書いています。彼は、藤代らにも同じようなうっぷんを洩らしていたにちがいありません。漱石は「倫敦消息」其1(『ホトトギス』一九〇一年五月号)においても、「日本の紳士が徳育、体育、美育の点に於いて非常に欠乏して居る」ことを指摘し、「其紳士が如何に平気な顔をして得意であるか(中略)。彼等が如何に空虚であるか」を憤っています。「日本の軽薄子」とは、前記の鏡子宛の中の「官吏商人」にあたる者だと考えることができます。漱石は、日本がロシアと戦争をして勝ったとしても、利益を得るのは「官吏商人」だけであり、彼らがいっそう軽佻浮薄な言動を募らせるだけだと考えていたのです。」
地獄* 売春宿
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posted by Fukutake at 11:01| 日記
2022年03月15日
戦争回避の知恵
「困ります、ファインマンさん」 ファインマン 大貫昌子訳 岩波現在文庫
科学の価値とは p336〜
「ほとんどの人間は戦争が大嫌いです。今日の私たちの夢は平和にあります。平和なときにこそ人類は自分の持つ大きな可能性を充分に育てることができるのです。とはいえ未来の人間は、その平和すら善にも悪にもなり得るものだということに気付くかもしれません。平和な時の人間は退屈のあまり酒におぼれるかもしれず、その飲酒がせっかくの人間のもっているはずの能力を充分にのばせなくしてしまう大問題にふくれあがるかもしれません。
明らかに平和というものは、多くの人の夢見る禁酒節制、物質的力、コミュニケーション、教育、正直さなどの理想と同じく偉大な力です。昔の人に比べると今の私たちは、制御していかなくてはならない力をずっと多く手にしており、それを昔の人より少しはうまくコントロールができるようになっているかもしれませんが、それにしても人間の達成した成果の混乱ぶりを考えると、私たちが能力をもっているはずなのにできないでいることの方が、まだまだ圧倒的に多いのです。
これはいったいどうしたことでしょう? なぜ私たちは自分を克服することができないのでしょうか?
それはさっきあげたような偉大な力にも能力にも、それをどのように使うべきかというはっきりした使用法がついていないからです。この物質世界のしくみや性質についての膨大な知識の積み重ねを例にとってみても、人は自然のその性質自体には何の意味もないことを悟るのみです。科学は直接には善も悪も教えてくれません。
過去何千年もの間、人間はたえず人生の意味を理解しようとつとめて来ました。そして私たちの行動に何らかの意味や指針が与えられると、これによって偉大な人間の力が解き放たれることを悟りました。そのためすべてのものの意味についてありとあらゆる指針や解答が提供されてきました。ところがどうでしょう。その解答はまったく千差万別で、一つの解答を提案したものは、他の解答を信奉する者の行動に怖じ気をふるうといったありさまです。怖じ気をふるうと言ったのは、反対する者の見地からすれば、それは人類の偉大な潜在能力を、およそ見当違いで窮屈な袋小路に向けて注ぎこむことになってしまうからです。事実こうして間違った信念から生みだされた数々の恐ろしいできごとの歴史を通して、哲学者たちははじめて人間の驚くべき無限の能力を認識したのでした。私たちの夢は、開いた通路、開いた扉をみつけだすことです。
この世のすべてはいったい何を意味しているのでしょうか? 人間存在の神秘を解きあかすには何を言ったらいいのでしょうか?
昔の人々が知っていたことだけでなく、彼らは知らなかったが現在の私たちは知っていることも全部含めて、すべてをよくよく考えてみるとき、私たちは実は何も知ってはいないのだということを改めて正直に告白すべきだと私は考えます。
しかしこれを告白することによって、おそらく私たちは開いた通路をみつけだすことができるはずなのです。」
(原文)
「”what do you care what other people think?” Richard P. Feynman
p246〜
Nearly everyone dislikes war. Our dream today is peace. In peace, man can develop best the enormous possibilities he seems to have. But maybe future men will find that peace, too, can be good and bad. Perhaps peaceful men will drink out of boredom. Then perhaps drink will become the great problem which seems to keep man from getting all he thinks he should out of his abilities.
Clearly, peace is a great force- as are sobriety, material power, communication, education, honesty, and the ideals of many dreamers. We have more of these forces to control than did the ancients. And maybe we are doing a little better than most of them could do. But what we ought to be able to do seems gigantic compared with our confused accomplishments.
Why is this? What can't we conquer ourselves?
Because we find that even great forces and abilities do not seem to carry with them clear instructions on how to use them. As an example, the great accumulations on understanding as to how the physical world behaves only convinces one that behavior seems to have a kind of meaninglessness. The sciences do not directly teach good and bad.
Through all ages of our past, people have tried to fathom the meaning of life. They have realized that if some direction or meaning could be given to our actions, great human forces would be unleashed. So, very many answers have been given to the question of the meaning of it all. But the answers have been of all different sorts, and the proponents of one answer have looked with horror at the actions of believers in another- horror, because from a disagreeing point of view all the great potentialities of the race are channeled into a false and confining blind alley. In fact, it is from the history of the enormous monstrosities created by false belief that philosophers have realized the apparently infinite and wondrous capacities of human beings. The dream is to find the open channel.
What, then, is the meaning of it all? What can we say to dispel the mystery of existence?
If we take everything into account- not only what the ancients knew, but all of what we know today that they didn't know - then I think we must frankly admit that we do not know.
But, in admitting this, we have probably found the open channel.」
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科学の価値とは p336〜
「ほとんどの人間は戦争が大嫌いです。今日の私たちの夢は平和にあります。平和なときにこそ人類は自分の持つ大きな可能性を充分に育てることができるのです。とはいえ未来の人間は、その平和すら善にも悪にもなり得るものだということに気付くかもしれません。平和な時の人間は退屈のあまり酒におぼれるかもしれず、その飲酒がせっかくの人間のもっているはずの能力を充分にのばせなくしてしまう大問題にふくれあがるかもしれません。
明らかに平和というものは、多くの人の夢見る禁酒節制、物質的力、コミュニケーション、教育、正直さなどの理想と同じく偉大な力です。昔の人に比べると今の私たちは、制御していかなくてはならない力をずっと多く手にしており、それを昔の人より少しはうまくコントロールができるようになっているかもしれませんが、それにしても人間の達成した成果の混乱ぶりを考えると、私たちが能力をもっているはずなのにできないでいることの方が、まだまだ圧倒的に多いのです。
これはいったいどうしたことでしょう? なぜ私たちは自分を克服することができないのでしょうか?
それはさっきあげたような偉大な力にも能力にも、それをどのように使うべきかというはっきりした使用法がついていないからです。この物質世界のしくみや性質についての膨大な知識の積み重ねを例にとってみても、人は自然のその性質自体には何の意味もないことを悟るのみです。科学は直接には善も悪も教えてくれません。
過去何千年もの間、人間はたえず人生の意味を理解しようとつとめて来ました。そして私たちの行動に何らかの意味や指針が与えられると、これによって偉大な人間の力が解き放たれることを悟りました。そのためすべてのものの意味についてありとあらゆる指針や解答が提供されてきました。ところがどうでしょう。その解答はまったく千差万別で、一つの解答を提案したものは、他の解答を信奉する者の行動に怖じ気をふるうといったありさまです。怖じ気をふるうと言ったのは、反対する者の見地からすれば、それは人類の偉大な潜在能力を、およそ見当違いで窮屈な袋小路に向けて注ぎこむことになってしまうからです。事実こうして間違った信念から生みだされた数々の恐ろしいできごとの歴史を通して、哲学者たちははじめて人間の驚くべき無限の能力を認識したのでした。私たちの夢は、開いた通路、開いた扉をみつけだすことです。
この世のすべてはいったい何を意味しているのでしょうか? 人間存在の神秘を解きあかすには何を言ったらいいのでしょうか?
昔の人々が知っていたことだけでなく、彼らは知らなかったが現在の私たちは知っていることも全部含めて、すべてをよくよく考えてみるとき、私たちは実は何も知ってはいないのだということを改めて正直に告白すべきだと私は考えます。
しかしこれを告白することによって、おそらく私たちは開いた通路をみつけだすことができるはずなのです。」
(原文)
「”what do you care what other people think?” Richard P. Feynman
p246〜
Nearly everyone dislikes war. Our dream today is peace. In peace, man can develop best the enormous possibilities he seems to have. But maybe future men will find that peace, too, can be good and bad. Perhaps peaceful men will drink out of boredom. Then perhaps drink will become the great problem which seems to keep man from getting all he thinks he should out of his abilities.
Clearly, peace is a great force- as are sobriety, material power, communication, education, honesty, and the ideals of many dreamers. We have more of these forces to control than did the ancients. And maybe we are doing a little better than most of them could do. But what we ought to be able to do seems gigantic compared with our confused accomplishments.
Why is this? What can't we conquer ourselves?
Because we find that even great forces and abilities do not seem to carry with them clear instructions on how to use them. As an example, the great accumulations on understanding as to how the physical world behaves only convinces one that behavior seems to have a kind of meaninglessness. The sciences do not directly teach good and bad.
Through all ages of our past, people have tried to fathom the meaning of life. They have realized that if some direction or meaning could be given to our actions, great human forces would be unleashed. So, very many answers have been given to the question of the meaning of it all. But the answers have been of all different sorts, and the proponents of one answer have looked with horror at the actions of believers in another- horror, because from a disagreeing point of view all the great potentialities of the race are channeled into a false and confining blind alley. In fact, it is from the history of the enormous monstrosities created by false belief that philosophers have realized the apparently infinite and wondrous capacities of human beings. The dream is to find the open channel.
What, then, is the meaning of it all? What can we say to dispel the mystery of existence?
If we take everything into account- not only what the ancients knew, but all of what we know today that they didn't know - then I think we must frankly admit that we do not know.
But, in admitting this, we have probably found the open channel.」
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posted by Fukutake at 08:05| 日記