「幕末維新懐古談」 高村光雲* 著 岩波文庫
大工から彫刻へ、そして父の訓誡 p25〜
「…この安さんという人は、その頃四十格好で、気性の至極面白い世話好きの人でありましたから、早速、先方へその話をして、翌日、私を東雲師匠の宅へ伴れて行ってくれました。
それが、ちょうど私の十二歳の春、文久三年三月十日のことですが、妙なことが縁となって、大工になるはずの処が彫刻の方へ道を換えましたような訳、私の一生の運命がマアこの安さんの口入れで決まったようなことになったのです。…
さて、いよいよ話が決まりましたその夜、父は私に向い、今日までは親の側にいて我儘は出来ても、明日からは他人の中で出ては、そんな事は出来ぬ。それから、お師匠様初め目上の人に対し、少しでも無礼のないよう心掛け、何事があつても皆自分が悪いと思え、申し訳や口返しをしてはならぬ。一度師の許へ行ったら、二度と帰ることは出来ぬ。もし帰れば足の骨をぶち折るからそう思うておれ。
家に来るは師匠より許されて、盆と正月、二度しかない。またこの近所へ使いに来ても、決して家に寄る事ならぬ。家へ帰るのは十一年勤めて立派に一人前の人に成って帰れ。……とこういい聞かされました。
そして、父は再び言葉を改め
「今一ついって置くが、中年頃に成っても、決して声を出す芸事は師匠が許しても覚えてはならぬ、お前の祖父はそのために身体を害し、それで私は一生無職で何んの役に立たぬ人になった。せめてお前だけは満足なものになってくれ」と涙を流して訓誡されました。
この事だけは私は今によく覚えております。」
高村光雲* 明治大正期を代表する木彫家で、西郷隆盛像の製作者として知られる(1852〜1934)。光雲の自伝的回顧録。
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声を出す芸は身を亡ぼす。
2022年03月23日
恥
「田中美知太郎全集 26」 筑摩書房 平成二年
正義ー公共的偽善の問題 p75〜
「われわれは『プロタゴラス』のうちに次のような文章を見つけるだろう。
「正義その他の国民がもつべき徳について、人びとは何ぴとかが正義に反していると分かっていても、もしその人間が自分で自分のことを多くの人たちの面前で真実そのままに語るとしたら、ほかの場合には真実を語ることは正常心を保っていることにほかならないと考えても、この場合は正気の沙汰ではないと考えるだろう。そして人はすべて自分が正義を守っていることを、実際はそうであろうとあるまいと、とにかくそう公言しなければならないのであって、正義をよそおうことをしない者があるなら、それは正気を失った者なのだと主張するだろう。それはつまり正義をとにかく何らかの仕方で共有しないような者は誰ひとりあってはならないのであって、もしそういう者があるなら、それは人間のうちには入らないからだというわけなのである。」
これはわれわれを当惑させる文章であると言わなければならない。なぜなら、まず第一、われわれはすべて正義を共有していなければならないと言われているのに、他方ではわれわれは正義に外れることもありうるかのような想定をし、その仮定の下に重要な発言がされている。そしてそれが疑問の第二点となる。真実をそのまま語ることが一般には精神の健全さを示すものと解されているけれども、ただ、正義についてだけは、それは精神の健全さが失われたこととされる。ひとは正義に外れていても、またそれをひとに知られていても、その真実をそのまま「多数の人たちの面前で」公言してはならず、あくまでも白を切って正義を偽装しなければならないというのであるが、われわれにはすぐ納得できないことであり、それをむしろ常識的なこととし、そうでない行為を狂気の沙汰と見ることに対して、なぜそうなのかを怪しまずにはいられないだろう。まず後者の問題から考えてみると、クリティアスがアルキロコスを避難して言った次のような言葉がいくらかわれわれの助けになるかも知れない。
「もしかしてわざわざ自分自身についてこのような評判の種になることをギリシャ人たちに向かって公表しなかったら、われわれはかれアルキロコスが女奴隷エニボの息子であるということも、また貧乏で生活に行き詰まった為にパロスを逃げ出してタソスに行ったことも、そこへ行ってもまた土地の者たちと仲違いを生じたことも、また更に友となった人たちをも仲違いしている人たちと同様に悪く言っていたことも、聞いて知ることもなかっただろう。またその上にかれに教えてもらわねば、かれのみだらな女性関係をわれわれは知ることもなかったろうし、彼が好色漢であり、不埒千万な男であることも知らなかったろう。そしてこれらよりももっと恥ずべき最大のこと、すなわち戦場において盾を棄てて逃亡した男だということも。だからアルキロコスは自分のためになるよい証人ではなかったのである。自分のためにこんな悪名を広め、こんな噂の種を残したのだから。」
つまり恥の文化と呼ばれる特色をもつギリシャ人社会においては自分の恥辱となるようなことを人前で喋りちらすなどということは、およそ恥知らずな許すべからざる行為と見られたのではないかと考えられる。われわれ日本人も永い間「みっともない」ことを恐れる美の倫理に生き、古代ギリシャ人と恥の文化を共有して来たから、クリティアスのアルキロコス非難をある程度理解できるかも知れない。しかし、われわれには告白好きなところもあり、懺悔の教えも永い歴史をもってわれわれを教化して来たのであるから、反面においてクリティアスに同調できないところもあるかも知れない。また現在のわれわれは恥の文化どころか、恥知らずの文化のうちにあると言わるかも知れないのである。」
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正義ー公共的偽善の問題 p75〜
「われわれは『プロタゴラス』のうちに次のような文章を見つけるだろう。
「正義その他の国民がもつべき徳について、人びとは何ぴとかが正義に反していると分かっていても、もしその人間が自分で自分のことを多くの人たちの面前で真実そのままに語るとしたら、ほかの場合には真実を語ることは正常心を保っていることにほかならないと考えても、この場合は正気の沙汰ではないと考えるだろう。そして人はすべて自分が正義を守っていることを、実際はそうであろうとあるまいと、とにかくそう公言しなければならないのであって、正義をよそおうことをしない者があるなら、それは正気を失った者なのだと主張するだろう。それはつまり正義をとにかく何らかの仕方で共有しないような者は誰ひとりあってはならないのであって、もしそういう者があるなら、それは人間のうちには入らないからだというわけなのである。」
これはわれわれを当惑させる文章であると言わなければならない。なぜなら、まず第一、われわれはすべて正義を共有していなければならないと言われているのに、他方ではわれわれは正義に外れることもありうるかのような想定をし、その仮定の下に重要な発言がされている。そしてそれが疑問の第二点となる。真実をそのまま語ることが一般には精神の健全さを示すものと解されているけれども、ただ、正義についてだけは、それは精神の健全さが失われたこととされる。ひとは正義に外れていても、またそれをひとに知られていても、その真実をそのまま「多数の人たちの面前で」公言してはならず、あくまでも白を切って正義を偽装しなければならないというのであるが、われわれにはすぐ納得できないことであり、それをむしろ常識的なこととし、そうでない行為を狂気の沙汰と見ることに対して、なぜそうなのかを怪しまずにはいられないだろう。まず後者の問題から考えてみると、クリティアスがアルキロコスを避難して言った次のような言葉がいくらかわれわれの助けになるかも知れない。
「もしかしてわざわざ自分自身についてこのような評判の種になることをギリシャ人たちに向かって公表しなかったら、われわれはかれアルキロコスが女奴隷エニボの息子であるということも、また貧乏で生活に行き詰まった為にパロスを逃げ出してタソスに行ったことも、そこへ行ってもまた土地の者たちと仲違いを生じたことも、また更に友となった人たちをも仲違いしている人たちと同様に悪く言っていたことも、聞いて知ることもなかっただろう。またその上にかれに教えてもらわねば、かれのみだらな女性関係をわれわれは知ることもなかったろうし、彼が好色漢であり、不埒千万な男であることも知らなかったろう。そしてこれらよりももっと恥ずべき最大のこと、すなわち戦場において盾を棄てて逃亡した男だということも。だからアルキロコスは自分のためになるよい証人ではなかったのである。自分のためにこんな悪名を広め、こんな噂の種を残したのだから。」
つまり恥の文化と呼ばれる特色をもつギリシャ人社会においては自分の恥辱となるようなことを人前で喋りちらすなどということは、およそ恥知らずな許すべからざる行為と見られたのではないかと考えられる。われわれ日本人も永い間「みっともない」ことを恐れる美の倫理に生き、古代ギリシャ人と恥の文化を共有して来たから、クリティアスのアルキロコス非難をある程度理解できるかも知れない。しかし、われわれには告白好きなところもあり、懺悔の教えも永い歴史をもってわれわれを教化して来たのであるから、反面においてクリティアスに同調できないところもあるかも知れない。また現在のわれわれは恥の文化どころか、恥知らずの文化のうちにあると言わるかも知れないのである。」
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posted by Fukutake at 08:07| 日記
2022年03月22日
女
「棚から哲学」 土屋賢二 文春文庫 2002年
女の扱い方 p130〜
「企業が何千億円も損失を出すことがあるが、どうやったらそんなに損失を出せるのだろうか。わたしがどんなことをしても何千億円も損失を出せないだろう。また、一人で何十億円も銀行から詐取する詐欺師がいるが、どうやったのだろうか。わたしには、自分が稼いだ金を二千円ごまかすことさえできない。
女の扱い方についてこういう疑問をもったことはなかった。わたしは最初、女は天使、女神、観音様と同類かと思っていた。悪くても犬や猫の仲間だろうと思っていた。その後、幾多の苦い経験を重ね、ライオンかハイエナの仲間ではないかと疑う段階を経て、ゴジラの仲間だと気づいたとき、ついに真理を見出だしたと思った。暴れるゴジラ相手に打つ手はない。女の扱い方を考えても無駄だ。こう思った。わずかに「どうして善良な人間を平気で踏み潰せるのか」という疑問を抱いただけだった。
しかし、あるとき、テレビの番組を見てから、わたしの認識は一変した。それを見たのが何ヶ月前だったか、何年前だったか忘れたが、百年前ではなかったと思う。
その番組は、冷戦時代に東ドイツの諜報部が西側の女をどうやってスパイに仕立てたかを描いた外国のドキュメンタリーだった。その方法は、狙いをつけた女に男性諜報部員が接近して、恋に陥らせ、スパイ行為を働かせる、という古典的な手口である。元諜報部員の証言によると、狙った女は、100パーセント恋に落ちたらしい。
これを見て、ぜひ知りたいと思ったのは、どうやって狙った女を恋に陥らせることができたのか、ということだった。その諜報部員がハンサムだったのならまだ分かる。だが、テレビで見た限り、誘惑した諜報部員はどれも、わたしと似たり寄ったりのさえない男なのだ。そういう男が、富豪、医師、青年実業家などを装いもせず、狙った通りの成果をあげたのだ。その具体的な手口を、わたし以外の全男性に代わって知りたい(だがテレビでは詳しい説明はなかった)。
もっと知りたいのは、どうやってスパイ行為を働くように説得したのか、ということだ。たとえ女が恋に落ちても、男の思うことをやらせるのは至難のわざである。第一、頼みごとが尋常ではない。西側の女に祖国を裏切って重罪を犯してくれ、と頼んでいるのだ。しかも尋常な相手に頼みむのではない。ちょっとそこの新聞を取ってくれ、というささやかな頼みごとでもきこうとしない女が相手なのだ。
テレビによると、親密になって数ヶ月たったころ、「スパイをしてくれないと、もう会えない」といって、女にスパイを働かせたという。だが、これは何の説明にもならない。かりにわたしが「そこの新聞を取ってくれないと、もう会え愛」といってもゴジラを竹槍で脅すようなものだ。
わたしはそれまで女を意のままに操ることは絶対に不可能だと思っていた。それが可能なら、太陽が西から昇っても、阪神が優勝してもおかしくないと思っていた。女を自由に操る男がいることを知ったとき、女は深い謎となり、どうやったら女を意のままに操れるかを解明することがわたしの研究課題となった。わたしがオンナに踏み潰されているのは、たぶん女のお扱い方が適切でないか、女が適切でないか、わたしが適切でないかだ。
考えてみると、女が会社の金を何億円も横領して男に貢いだという事件はときどき起こっている。そういうニュースを聞くたびに、わたしは知っている女とは種類が違うと思ってきたが、適切な扱い方を知っている男は、女を思い通りに操っているのだ。
われわれは元諜報部員やオンナに貢がせた男からぜひともノウハウを学ぶ必要がある。彼らを講師に迎えた特別な学校ができないものか(カルチャーセンターや大学のような所で教えるにはテーマが重大すぎる)。女の扱い方は犬の訓練法に似ているのではないかと思うが、マスターするのは桁違いに困難だろう。だが卒業に十年かかっても二十年かかっても、勉強したいものだ。」
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女の扱い方 p130〜
「企業が何千億円も損失を出すことがあるが、どうやったらそんなに損失を出せるのだろうか。わたしがどんなことをしても何千億円も損失を出せないだろう。また、一人で何十億円も銀行から詐取する詐欺師がいるが、どうやったのだろうか。わたしには、自分が稼いだ金を二千円ごまかすことさえできない。
女の扱い方についてこういう疑問をもったことはなかった。わたしは最初、女は天使、女神、観音様と同類かと思っていた。悪くても犬や猫の仲間だろうと思っていた。その後、幾多の苦い経験を重ね、ライオンかハイエナの仲間ではないかと疑う段階を経て、ゴジラの仲間だと気づいたとき、ついに真理を見出だしたと思った。暴れるゴジラ相手に打つ手はない。女の扱い方を考えても無駄だ。こう思った。わずかに「どうして善良な人間を平気で踏み潰せるのか」という疑問を抱いただけだった。
しかし、あるとき、テレビの番組を見てから、わたしの認識は一変した。それを見たのが何ヶ月前だったか、何年前だったか忘れたが、百年前ではなかったと思う。
その番組は、冷戦時代に東ドイツの諜報部が西側の女をどうやってスパイに仕立てたかを描いた外国のドキュメンタリーだった。その方法は、狙いをつけた女に男性諜報部員が接近して、恋に陥らせ、スパイ行為を働かせる、という古典的な手口である。元諜報部員の証言によると、狙った女は、100パーセント恋に落ちたらしい。
これを見て、ぜひ知りたいと思ったのは、どうやって狙った女を恋に陥らせることができたのか、ということだった。その諜報部員がハンサムだったのならまだ分かる。だが、テレビで見た限り、誘惑した諜報部員はどれも、わたしと似たり寄ったりのさえない男なのだ。そういう男が、富豪、医師、青年実業家などを装いもせず、狙った通りの成果をあげたのだ。その具体的な手口を、わたし以外の全男性に代わって知りたい(だがテレビでは詳しい説明はなかった)。
もっと知りたいのは、どうやってスパイ行為を働くように説得したのか、ということだ。たとえ女が恋に落ちても、男の思うことをやらせるのは至難のわざである。第一、頼みごとが尋常ではない。西側の女に祖国を裏切って重罪を犯してくれ、と頼んでいるのだ。しかも尋常な相手に頼みむのではない。ちょっとそこの新聞を取ってくれ、というささやかな頼みごとでもきこうとしない女が相手なのだ。
テレビによると、親密になって数ヶ月たったころ、「スパイをしてくれないと、もう会えない」といって、女にスパイを働かせたという。だが、これは何の説明にもならない。かりにわたしが「そこの新聞を取ってくれないと、もう会え愛」といってもゴジラを竹槍で脅すようなものだ。
わたしはそれまで女を意のままに操ることは絶対に不可能だと思っていた。それが可能なら、太陽が西から昇っても、阪神が優勝してもおかしくないと思っていた。女を自由に操る男がいることを知ったとき、女は深い謎となり、どうやったら女を意のままに操れるかを解明することがわたしの研究課題となった。わたしがオンナに踏み潰されているのは、たぶん女のお扱い方が適切でないか、女が適切でないか、わたしが適切でないかだ。
考えてみると、女が会社の金を何億円も横領して男に貢いだという事件はときどき起こっている。そういうニュースを聞くたびに、わたしは知っている女とは種類が違うと思ってきたが、適切な扱い方を知っている男は、女を思い通りに操っているのだ。
われわれは元諜報部員やオンナに貢がせた男からぜひともノウハウを学ぶ必要がある。彼らを講師に迎えた特別な学校ができないものか(カルチャーセンターや大学のような所で教えるにはテーマが重大すぎる)。女の扱い方は犬の訓練法に似ているのではないかと思うが、マスターするのは桁違いに困難だろう。だが卒業に十年かかっても二十年かかっても、勉強したいものだ。」
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posted by Fukutake at 07:49| 日記