「トム・ピーターズのサラリーマン大逆襲作戦@ ーブランド人になれー」(The brand you 50) トム・ピーターズ 仁平和夫・訳 TBSブリタニカ
君はパッケージ p59〜
「自分のことを一個のパッケージと思っている人は少ないだろうが、実は、人は誰しもパッケージなのだ(ウソだと思うなら、うわさ話に耳をすませてごらん。彼は火の玉… 彼女はダイナマイト… あいつほど退屈なヤツは見たことがねえ…)
自分をブランドに仕立て上げるコツは、自分をどうパッケージすれば、メッセージを的確に伝えられるかを考えることだ。
さっそく、近所のスーパーに行ってみよう。どんなパッケージが、ぱっと輝いてみえるだろう。元気いっぱいのもの、きらめいているもの、みずみずしいもの、おトクなもの、ぎょっとするもの、信頼感があるもの、きれいなもの、デザインがおもしろいものに思わず目が行くはずだ。自分をブランドにしようと思うとき、大いに参考になるとは思わないか。
「パッケージングは誘惑だ。パッケージされていれば、決断が簡単になり、速くなる。一見するとパッケージには見えないが、実はパッケージになっているものは多い(マクドナルドがそうだ)」ートーマス・ハインズ『トータル・パッケージ』
読者の怒りの声が聞こえてきそうだ。
「ハデハデにしろって? 悪かったな、俺はジミな性格なんだ。それともなにか? 病院に行って、性格の移植手術でも受けろってのか」
いや違う。私が言いたいのはそうではない。
当たり前すぎる話で恐縮だが、あなたには、あなたにしかないものがある(ウソだと思うなら、友だちに聞いてみるといい)。問題は、私たちの多くが、その大切な個性を、朝の九時から夕方の五時まで抑えつけていることだ。変わり者だと思われるのが怖くて、燃えたぎるもの、爆発しそうなものを懸命に抑え、上司に対する恨みつらみをつのらせている。そして、何をするかといえば、わざと仕事をゆっくりやる、いい加減にやるという子供じみた抵抗を試みている。そんなことをして、いちばん傷つくのは誰か(ヒント*上司ではない)。
サウスウエスト航空が成功した秘訣は何か。言うまでもなく、航空ビジネスでいちばん大切なものは安全性で、サウスウエストの安全運行実績は業界ナンバーワンだ。しかし、サウスウエストの売り物はそれだけじゃない。はちきれんばかりの個性がある。なぜ? 従業員にそれを求めているからだ。大切な個性を、駐車場の車の中に置いてこないで、職場まで持ってきて、思う存分発揮してほしい…。あなたにしかない「あなたらしさ」で、同僚や乗客の人生を一段と楽しいものにしてほしい…。 会社が従業員にそうお願いしているからだ。」
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自分にしかない個性を現せ!(少なくとも、外見だけでも)
2022年03月26日
誕生日が一緒
「数の魔法使い」 R・イーストウェイ J・ウィリアム 軽部征夫訳 三笠書房(王様文庫)
誕生日がバラバラということ p114〜
「まず、子どもがふたりのクラスを考えてください。かりに、ひとりの子どもの誕生日が6月14日だとします。もうひとりの子どもの誕生日が違っている確率はどうなりますか?
もうひとりの子の誕生日が6月14日以外であればいいわけですから、残り364日から選べます。だから、ふたりの誕生日が違っている確率は364/365となります。
次に3人目の子どもを加えて、3人のクラスを考えます。この子が前のふたりと違った誕生日になるには、前のふたりが別々の誕生日でしたから、残る363日から選べばいいのです。したがって、3人目の子どもの誕生日が違っている確率は363/365となります。
4人目についても同様です。誕生日が違っている確率は362/365です。これを繰り返していけばいいのです。
子どもがひとり増えるたびに、誕生日が違っている確率はすこしずつ減っていきます。23人目の子どもがほかの子どもと誕生日が違っている確率は343/365になります。
このへんで中断して、23人の子どもが全部違った誕生日である確率を計算してみましょう。それぞれの確率を掛け合わせていけば計算ができます。
23人全員が違った誕生日である確率はーー
364/365 x 363/365 x 362/365 x……x 343/365=0.49
上の計算のように、23人のクラスで子どもの誕生日がみごとにバラバラ、一組も同じ誕生日が出ない確率は49%です。だいたい半分に確率で起こりうることになります。
それでは、「だれも同じ誕生日でないこと(確率)」の反対、すなわち51%とは何なのか、考えて見ることにしましょう。
そうです。これこそが、「同じ誕生日の子どもが少なくともふたりはいること(確率)」なのです。
多くの人にとって、この結果は信じられないものかもしれません。しかし間違いはありません。どうしても信じられない人は、近所の学校へご自分で出かけていってみてください。
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誕生日がバラバラということ p114〜
「まず、子どもがふたりのクラスを考えてください。かりに、ひとりの子どもの誕生日が6月14日だとします。もうひとりの子どもの誕生日が違っている確率はどうなりますか?
もうひとりの子の誕生日が6月14日以外であればいいわけですから、残り364日から選べます。だから、ふたりの誕生日が違っている確率は364/365となります。
次に3人目の子どもを加えて、3人のクラスを考えます。この子が前のふたりと違った誕生日になるには、前のふたりが別々の誕生日でしたから、残る363日から選べばいいのです。したがって、3人目の子どもの誕生日が違っている確率は363/365となります。
4人目についても同様です。誕生日が違っている確率は362/365です。これを繰り返していけばいいのです。
子どもがひとり増えるたびに、誕生日が違っている確率はすこしずつ減っていきます。23人目の子どもがほかの子どもと誕生日が違っている確率は343/365になります。
このへんで中断して、23人の子どもが全部違った誕生日である確率を計算してみましょう。それぞれの確率を掛け合わせていけば計算ができます。
23人全員が違った誕生日である確率はーー
364/365 x 363/365 x 362/365 x……x 343/365=0.49
上の計算のように、23人のクラスで子どもの誕生日がみごとにバラバラ、一組も同じ誕生日が出ない確率は49%です。だいたい半分に確率で起こりうることになります。
それでは、「だれも同じ誕生日でないこと(確率)」の反対、すなわち51%とは何なのか、考えて見ることにしましょう。
そうです。これこそが、「同じ誕生日の子どもが少なくともふたりはいること(確率)」なのです。
多くの人にとって、この結果は信じられないものかもしれません。しかし間違いはありません。どうしても信じられない人は、近所の学校へご自分で出かけていってみてください。
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posted by Fukutake at 08:40| 日記
2022年03月25日
大岡昇平
「小林秀雄全集 第十巻」− ゴッホの手紙 − 新潮社版 平成十四年
「武蔵野夫人」 p13〜
「大岡君の作品には、「俘虜記」以来、戰爭を經驗し、戰爭を題材とした多くの作品に見られない一つの特色がある様に思はれる。それは、戰爭が、純然たる個人的事件として執拗に回想されてゐて、政治的觀點は勿論、他のどんな觀念からも解釋されてゐない處にある。戰爭といふ、少なくとも自分にとつては、全く無意味な、偶然な、強制された經驗が、自分の心をどういふ風に傷つけ、どう言ふ具合に目覺ますか、その出来得る限り直接な意識、恐らくこれが、出征以来、過去は死に、未来は信じられぬ彼の精神の集中された的である。偶然による生還には復員者といふ彼獨特の觀念が必至であつた。これは、恰も第二の青春の様に彼をおとづれたが、彼は其處に、忍耐強い獨白によつてしか馴致出来ぬ不信と危險とのある事を感じた。それが彼の一連の戰記物である。
戰爭といふ異常な題材にも、讀者の好奇心にも頼らない、孤獨な作である。獨白は完了してゐない。「武蔵野夫人」は、半ば強ひられた試みの様に見える。ジャアナリズムは、作者のエゴティスムとは關係のない特權を持つており、作者は止むなくその中で、未だ獨白の完了しない復員者として、進んで冒險を希つた様に見える。ラヂゲの殘酷な手法が作者を誘つた。模倣は外面的になされる限り有効であるが、作者は武蔵野夫人の様な心の動きは、時代おくれであらうか、といふ逆説的なテーマにまで、のめり込んで行つた。冒險には抑制ががない。又、それ程、習慣的感情や社會通年への侮蔑、歴史的意匠への最大限度の不信は、この復員者には必要だつたのだと言へよう。
作者は、作中の人物達に、言はば、めいめいの性格といふ質を與へず、類型といふ量を分配し、出来るだけ日常生活の無意味さの中だけで動き廻つてゐる様に、その心理、感情、動作を工夫する。彼等はお互に共感せず、作者も又彼等から絶縁したい。作は戀愛を題材としてゐる。併し、それは人生で唯一眞實らしい人間同士の共感も虚僞である事を示す爲らしい。戀愛といふ、作者の言葉を借りれば「誓ひ」の嘘を明かす。「自殺が未遂に終わらなかつたのは、純然たる事故であつた。事故によらなければ悲劇が起らない。それが廿世紀である」と作者は言ふ。
評判のゲオルギウの「二十五時」も大規模な事故小説である。廿世紀とは悲劇に事故が取つて代つた世紀であるか。それは眞實らしい。が、それが作者の實驗室の眞實に過ぎない事も亦同程度に眞實らしい。藝術家は、いや人間精神は事故を信ずる事が出来ない。聰明な大岡君は、恐らく書いて了つてから自問してゐるであらう、人生の劇を、非人間的な事故の連續に解體して了つておきながら、一方、何故俺はこんなに自然の美しさを執拗に語つて了つたのであらう、と。」
(「新潮」、昭和二十六年一月)
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「武蔵野夫人」 p13〜
「大岡君の作品には、「俘虜記」以来、戰爭を經驗し、戰爭を題材とした多くの作品に見られない一つの特色がある様に思はれる。それは、戰爭が、純然たる個人的事件として執拗に回想されてゐて、政治的觀點は勿論、他のどんな觀念からも解釋されてゐない處にある。戰爭といふ、少なくとも自分にとつては、全く無意味な、偶然な、強制された經驗が、自分の心をどういふ風に傷つけ、どう言ふ具合に目覺ますか、その出来得る限り直接な意識、恐らくこれが、出征以来、過去は死に、未来は信じられぬ彼の精神の集中された的である。偶然による生還には復員者といふ彼獨特の觀念が必至であつた。これは、恰も第二の青春の様に彼をおとづれたが、彼は其處に、忍耐強い獨白によつてしか馴致出来ぬ不信と危險とのある事を感じた。それが彼の一連の戰記物である。
戰爭といふ異常な題材にも、讀者の好奇心にも頼らない、孤獨な作である。獨白は完了してゐない。「武蔵野夫人」は、半ば強ひられた試みの様に見える。ジャアナリズムは、作者のエゴティスムとは關係のない特權を持つており、作者は止むなくその中で、未だ獨白の完了しない復員者として、進んで冒險を希つた様に見える。ラヂゲの殘酷な手法が作者を誘つた。模倣は外面的になされる限り有効であるが、作者は武蔵野夫人の様な心の動きは、時代おくれであらうか、といふ逆説的なテーマにまで、のめり込んで行つた。冒險には抑制ががない。又、それ程、習慣的感情や社會通年への侮蔑、歴史的意匠への最大限度の不信は、この復員者には必要だつたのだと言へよう。
作者は、作中の人物達に、言はば、めいめいの性格といふ質を與へず、類型といふ量を分配し、出来るだけ日常生活の無意味さの中だけで動き廻つてゐる様に、その心理、感情、動作を工夫する。彼等はお互に共感せず、作者も又彼等から絶縁したい。作は戀愛を題材としてゐる。併し、それは人生で唯一眞實らしい人間同士の共感も虚僞である事を示す爲らしい。戀愛といふ、作者の言葉を借りれば「誓ひ」の嘘を明かす。「自殺が未遂に終わらなかつたのは、純然たる事故であつた。事故によらなければ悲劇が起らない。それが廿世紀である」と作者は言ふ。
評判のゲオルギウの「二十五時」も大規模な事故小説である。廿世紀とは悲劇に事故が取つて代つた世紀であるか。それは眞實らしい。が、それが作者の實驗室の眞實に過ぎない事も亦同程度に眞實らしい。藝術家は、いや人間精神は事故を信ずる事が出来ない。聰明な大岡君は、恐らく書いて了つてから自問してゐるであらう、人生の劇を、非人間的な事故の連續に解體して了つておきながら、一方、何故俺はこんなに自然の美しさを執拗に語つて了つたのであらう、と。」
(「新潮」、昭和二十六年一月)
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posted by Fukutake at 11:47| 日記