「人生の知恵X パスカルの言葉」 田辺保 訳編 彌生書房 1997年
パンセ より p69〜
「わたしたちの惨めさをなぐさめてくれる唯一のものは、気ばらしである。ところが、これこそ、わたしたちの惨めさの中で最大のものなのである。なぜなら、わたしたちに自分自身のことを考えないようにさせ、知らず知らずのうちにほろびにいたらせるものは、主としてこの気ばらしだからである。これがなければ、わたしたちは退屈してしまうだろう。退屈すると、わたしたちはそこから逃れ出るためのもっとも確かな手段はないものかとさがし求めずにいられない気持ちにかり立てられるであろう。しかし、気晴らしは、わたしたちを楽しませ、知らず知らずのうちに死に至らせる。(パンセ 一七一)
人はみな、自分にとって自分がすべてである。人が死ねば、自分にとってすべてが死んだのと同じだからである。そういうところから、人はみな、自分がだれに対してもすべてなのだと思いこむようになった。自分自身をもとにして自然を判断してはならない。自然に即して、自然のことを考えねばならない。(パンセ 四五七)
あなたがたは、こんな人に出くわしたことはないだろうか。あなたがたがあまり敬意を払わないので、それが不満で、身分の高い人々の中でも自分を重じて下さるこんなかたがたがあるなどと言い立ててくる人々である。わたしなら、そんな言いぐさには、こんなふうに言い返してやるだろう。「それほどのかたがたを引きつけたという君の真価を、わたしに見せてくれないか。そうしたら、わたしも同じように君を尊敬しよう」。(パンセ 三三三)
虚栄心というものは、人間の心の中に深く錨をおろしているので、兵士、従卒、料理人、人足にいたるまで、それぞれにうぬぼれを持ち、人からもてはやされたいとねがうほどである。哲学者までが、自分を礼讃してくれる者を得たいとねがう。虚栄心に反対の論を立てる者も、論じ方がすぐれているという名誉を得たいと思っている。また、それに読む者の方は、読んだという名誉を得たいと思っている。今、こんなことを書いているわたしも、たぶん同じ願いを抱いているのだろう。おそらく、これを読んでくださっているかたがたも…。(パンセ 一五〇)
人間は一本の葦にすぎない。自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことは何も知らない。
だから、わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。まさに、ここから、わたしたちは立ち上がらなければならないのであって、空間や時間からではない。わたしたちには、それらを満たすことはできないのだから。だから、正しく考えるようにつとめようではないか。ここに道徳の出発点がある。(パンセ 三四七)」
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意味を知っていること。
漱石と京ことば
「漱石の京都」 水川隆夫 平凡社 2001年
漱石作品に表れた京都 p174〜
「「彼の気分を変化するに与って功力のあったものは京都の空気だの宇治の水だの、色々ある中に、上方地方の人の使う言葉が、東京に育った彼に取っては最も興味の多い刺激になったらしい。何遍もあの辺を通過した経験のあるものから云ふと馬鹿げて居るが、市蔵の当時の神経にはああ云ふ滑らかで静かな調子が、鎮経剤以上に優しい影響を与へ得たのではなからうかと思ふ。」(「松本の話」十)
と語っている。市蔵は、手紙に中で、
「僕は此辺(このへん)の人の言葉を聞くと微かな酔(よひ)に身を任せた様な気分になります。ある人はべたついて厭だと云ひますが、僕は丸で反対です。厭なのは東京の言葉です。無暗に角度の多い金平糖のやうな調子を得意になって出します。さうして聴手の心を粗暴にして威張ります。」(同前)
と述べている。
こうした関西旅行が「薬」(「松本の話」十二)になって、市蔵の「神経」(同前)はやわらぎ、「性癖」(同前)は次第に直っていく。漱石は、京都をはじめ上方の自然や風物や言葉などが「鎮経剤以上」に人の心を安らかにすることを記している。この気分の変化には、彼の体験からくる実感が反映していることはいうまでもない。「虞美人草」の天竜寺の場面で、漱石は、宗近君に「おれは寺へ這入ると好い気持ちになる」と言わせているが、これは漱石自身の気持ちだった。
京ことばについては、すでに明治二十五年(一八九二)の最初の京都旅行の時から好感をもっていた。漱石の俳句の中には、先にも挙げたように、
花を活けて京音の寡婦なまめかし(明治三十年)
京音の紅梅ありやと尋ねけり(明治三十二年)
などがある。
「門」や「彼岸過迄」に至ると、「虞美人草」ではまだ残っていた江戸っ子漱石の京都や上方に対する対抗意識が薄れて、東京と京都(上方)とをそれぞれに長所と短所はあるが、異なった個性的な文化をもつ地域として、ともに尊重しようとする意識に成長しつつある。漱石が大正三年(一九一四)の講演「私の個人主義」で述べた「自己の個性の発展を仕遂げやうと思ふならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないといふ事」は、個々の「人間」に対してばかりでなく、さまざまな「地域」や「文化」に対してもあてはまるべきだということが、彼の思想として定着しはじめているように思われる。
「神経の鋭く動く性質(たち)」(「須本の話」七)であった漱石が、時折京都を訪れたいと強く欲求をもったのも、景観や寺社や芸術など京都の自然と文化に心をひかれたのも、心のふるさとへ帰ったように神経の疲れを癒し、再び東京へ出て積極的に活動したいと考えていたからにちがいない。」
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心のふるさと
漱石作品に表れた京都 p174〜
「「彼の気分を変化するに与って功力のあったものは京都の空気だの宇治の水だの、色々ある中に、上方地方の人の使う言葉が、東京に育った彼に取っては最も興味の多い刺激になったらしい。何遍もあの辺を通過した経験のあるものから云ふと馬鹿げて居るが、市蔵の当時の神経にはああ云ふ滑らかで静かな調子が、鎮経剤以上に優しい影響を与へ得たのではなからうかと思ふ。」(「松本の話」十)
と語っている。市蔵は、手紙に中で、
「僕は此辺(このへん)の人の言葉を聞くと微かな酔(よひ)に身を任せた様な気分になります。ある人はべたついて厭だと云ひますが、僕は丸で反対です。厭なのは東京の言葉です。無暗に角度の多い金平糖のやうな調子を得意になって出します。さうして聴手の心を粗暴にして威張ります。」(同前)
と述べている。
こうした関西旅行が「薬」(「松本の話」十二)になって、市蔵の「神経」(同前)はやわらぎ、「性癖」(同前)は次第に直っていく。漱石は、京都をはじめ上方の自然や風物や言葉などが「鎮経剤以上」に人の心を安らかにすることを記している。この気分の変化には、彼の体験からくる実感が反映していることはいうまでもない。「虞美人草」の天竜寺の場面で、漱石は、宗近君に「おれは寺へ這入ると好い気持ちになる」と言わせているが、これは漱石自身の気持ちだった。
京ことばについては、すでに明治二十五年(一八九二)の最初の京都旅行の時から好感をもっていた。漱石の俳句の中には、先にも挙げたように、
花を活けて京音の寡婦なまめかし(明治三十年)
京音の紅梅ありやと尋ねけり(明治三十二年)
などがある。
「門」や「彼岸過迄」に至ると、「虞美人草」ではまだ残っていた江戸っ子漱石の京都や上方に対する対抗意識が薄れて、東京と京都(上方)とをそれぞれに長所と短所はあるが、異なった個性的な文化をもつ地域として、ともに尊重しようとする意識に成長しつつある。漱石が大正三年(一九一四)の講演「私の個人主義」で述べた「自己の個性の発展を仕遂げやうと思ふならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないといふ事」は、個々の「人間」に対してばかりでなく、さまざまな「地域」や「文化」に対してもあてはまるべきだということが、彼の思想として定着しはじめているように思われる。
「神経の鋭く動く性質(たち)」(「須本の話」七)であった漱石が、時折京都を訪れたいと強く欲求をもったのも、景観や寺社や芸術など京都の自然と文化に心をひかれたのも、心のふるさとへ帰ったように神経の疲れを癒し、再び東京へ出て積極的に活動したいと考えていたからにちがいない。」
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心のふるさと
posted by Fukutake at 09:13| 日記