「徒然草百七十二段」
「若い時は、向こう見ずにはやる気力が体内にあふれており、心は外部の影響を受けて動揺しやすく、情欲も盛んに動く、我が身を危険にさらして破滅の淵に沈みやすいことは、まるで珠を勢いづけてさっところがすようなものだ。また、美しく麗しい容顔を愛好して、そのために財宝を費やし、そうかと思えば、これを見捨てて世に背き、僧衣に身をやつしたりもするし、あるいは、勇み立つ心が盛んで見さかいもなしに競争心をあおり立て、どうかするとひどく恥かしがってみたり、他人を羨ましがったり、すき好むのが日ごとに変わって一定せず、恋愛感情に溺れこみ、人情に触れて感動し、思い切った行動に走って、将来ある我が身をめちゃくちゃにしてしまい、命までも失った人間もあったことが潔く思われて、自分もあんなふうになってみたいという気になり、我が身が平穏無事で長生きするようになどということは考えもせず、恋愛感情の方向に心が強く傾いて、後の世までの語り草になったりする。このように、我が身を誤るのは若い時の行動である。
年をとってしまった人は、気力も衰え、心があっさりと、また、大まかであって、感情の動揺することがない。心は自然に平静だから無駄なことはせず、我が身の保全をはかって病気などの心配事が起こらないようにし、さらに、他人に関しても悩みごとが起こらないようにと心がける。年老いてその知恵が若い者よりもまさっていることは、年が若くてその容貌が年老いた者よりまさっているのとおなじようなものである。」(「イラスト古典全訳徒然草」橋本武)
(原文)
「若き時は、血気内に余り、心物に動きて、情欲多し、身を危めて、砕け易き事、珠を走らしむるに似たり。美麗を好みて宝を費し、これを捨てて苔の袂(たもと)に窶(やつ)れ、勇める心盛りにして、物と争ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず、色に耽り、情にめで、行ひ潔くして、百年(ももとせ)の身を誤り、命を失へる例(ためし)願はしくして、身の全く、久しからん事をば思はず、好ける方に心ひきて、永き世語りともなる。身を誤つ事は、若き時のしわざなり。
老いぬる人は、精神衰え、淡く疎(おろそ)かにして、感じ動く所なし。心自(おのづか)ら静かなれば、無益のわざを為さず、身を助けて愁(うれへ)なく、人の煩ひなからん事を思ふ。老いて、智の、若きにまされる事、若くして、かたちの、老いたるにまされるが如し。」(岩波文庫)
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勇気と決断
「死すべき定め」 − 死にゆく人に何ができるか− アトゥール・ガワンデ
原井宏明 訳 みすず書房 2016年
勇気 p231〜
「紀元前三八〇年、プラトンは『ラケス』(対話篇)を著した。これはソクラテスと二人のアテネ人の将軍が、一見単純に見える問答を繰り返す、という内容である −−たとえば、勇気とは何だろうか? ラケスとニキアスの二人の将軍は軍事教練中の若者たちに鎧兜を着て戦闘することを教えるべきか否かについて意見が分かれ、解決を求めてソクラテスの許に訪れた。ニキアスはそうすべきだと考えた。ラケスはそうすべきではないと考えた。
ふむ、では教練の究極の目的とは何だろうか、とソクラテスが尋ねる。
若者たちに勇気をうえつけるためだ、と彼らは結論した。
それならば、「勇気とはなんだろうか?」
勇気とは、ラケスが応じる、「逆境に耐えうる精神力のことだ」。
ソクラテスは懐疑的である。彼は何かに耐えうることではなく、何かから撤退したり、さらに逃げ出したりすることであっても、勇気と呼べるときがあることを指摘する。愚かな辛抱というものもありはしないか。
ラケスは同意するが、もう一度反論を試みる。たぶん勇気とは「賢い我慢」だ。
この定義はより適切に思える。しかし、ソクラテスは、勇気が知恵とそこまで密接に結びついている必要があるかどうかについて疑問を投げかける。愚かな理由だが何かを追求する人間を勇気があると尊敬することはないのだろうか? と彼は尋ねる。
たしかに、そういうことはある、とラケスも認めた。
ここでニキアスが議論に参加してくる。彼が主張するには、勇気とは単純に、「何を恐れるべきか、何を望むべきかを見分ける知識であり、戦争中やそれ以外の場合も含む」。しかし、ここでもソクラテスは意見の矛盾を見つける。なぜなら、未来に対する完璧な知識がないときでも勇気は持つことができる。実際、そういうときにこそ勇気が必要なことが多い。
二人の将軍の意見はソクラテスによって論破された。この物語は勇気についての最終的な定義ができないまま終わる。しかし、読者は答えの候補にたどり着くだろう −−勇気とは何を恐れ、何を望むかについての知識と向き合える強さである。知恵は分別の強さだ。
老いと病いにあっては、少なくとも二種類の勇気が必要である一つ目は、死すべき定めという現実に向き合う勇気だ −− 何を恐れ、何を望みを持つかについての真実を探し求める勇気である。この勇気は難しく、持てないのも当然だ。真実から目を背けたい理由はいくらでもある。しかし、さらにもっと厳しいのは、二つ目の勇気だ −− 得た真実に則って行動する勇気である。何が賢明な道なのかはしばしばあいまいであり、それが人を悩ませる。長い間、私はそれを不確実性のせいだと単純に考えていた。この先の予測が難しければ、何をすべきかを決めるのが難しくなる。しかし、いろいろ経験するうちに本当のハードルは不確実性よりももっと根本的なことだと気づいた。恐れか望みか、どちらが自分にとってもっとも大事なのかを決めなければならないのだ。」
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「難しいのは、恐れか望みか、どちらが大事なのか決めなければならない。」
“the challenge is more fundamental than that. One has to decide whether one’s fear’s or one’s hopes are what should matter most.”
(「Being Mortal」 Atul Gawande –Medicine and what matters in the end)より
原井宏明 訳 みすず書房 2016年
勇気 p231〜
「紀元前三八〇年、プラトンは『ラケス』(対話篇)を著した。これはソクラテスと二人のアテネ人の将軍が、一見単純に見える問答を繰り返す、という内容である −−たとえば、勇気とは何だろうか? ラケスとニキアスの二人の将軍は軍事教練中の若者たちに鎧兜を着て戦闘することを教えるべきか否かについて意見が分かれ、解決を求めてソクラテスの許に訪れた。ニキアスはそうすべきだと考えた。ラケスはそうすべきではないと考えた。
ふむ、では教練の究極の目的とは何だろうか、とソクラテスが尋ねる。
若者たちに勇気をうえつけるためだ、と彼らは結論した。
それならば、「勇気とはなんだろうか?」
勇気とは、ラケスが応じる、「逆境に耐えうる精神力のことだ」。
ソクラテスは懐疑的である。彼は何かに耐えうることではなく、何かから撤退したり、さらに逃げ出したりすることであっても、勇気と呼べるときがあることを指摘する。愚かな辛抱というものもありはしないか。
ラケスは同意するが、もう一度反論を試みる。たぶん勇気とは「賢い我慢」だ。
この定義はより適切に思える。しかし、ソクラテスは、勇気が知恵とそこまで密接に結びついている必要があるかどうかについて疑問を投げかける。愚かな理由だが何かを追求する人間を勇気があると尊敬することはないのだろうか? と彼は尋ねる。
たしかに、そういうことはある、とラケスも認めた。
ここでニキアスが議論に参加してくる。彼が主張するには、勇気とは単純に、「何を恐れるべきか、何を望むべきかを見分ける知識であり、戦争中やそれ以外の場合も含む」。しかし、ここでもソクラテスは意見の矛盾を見つける。なぜなら、未来に対する完璧な知識がないときでも勇気は持つことができる。実際、そういうときにこそ勇気が必要なことが多い。
二人の将軍の意見はソクラテスによって論破された。この物語は勇気についての最終的な定義ができないまま終わる。しかし、読者は答えの候補にたどり着くだろう −−勇気とは何を恐れ、何を望むかについての知識と向き合える強さである。知恵は分別の強さだ。
老いと病いにあっては、少なくとも二種類の勇気が必要である一つ目は、死すべき定めという現実に向き合う勇気だ −− 何を恐れ、何を望みを持つかについての真実を探し求める勇気である。この勇気は難しく、持てないのも当然だ。真実から目を背けたい理由はいくらでもある。しかし、さらにもっと厳しいのは、二つ目の勇気だ −− 得た真実に則って行動する勇気である。何が賢明な道なのかはしばしばあいまいであり、それが人を悩ませる。長い間、私はそれを不確実性のせいだと単純に考えていた。この先の予測が難しければ、何をすべきかを決めるのが難しくなる。しかし、いろいろ経験するうちに本当のハードルは不確実性よりももっと根本的なことだと気づいた。恐れか望みか、どちらが自分にとってもっとも大事なのかを決めなければならないのだ。」
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「難しいのは、恐れか望みか、どちらが大事なのか決めなければならない。」
“the challenge is more fundamental than that. One has to decide whether one’s fear’s or one’s hopes are what should matter most.”
(「Being Mortal」 Atul Gawande –Medicine and what matters in the end)より
posted by Fukutake at 08:21| 日記