2022年02月15日

小説の効用

「小林秀雄全集 第六巻」− ドストエフスキイの生活− 新潮社版 平成十三年

讀書の工夫 p570〜

 「小説といふものの一番普通の魅力は、讀者に自分を忘れさせるところにある。自分を忘れ、小説中の人物となり、小説中の生活を自らやつてゐる様に錯覺する樂しみ、この樂しみに身をまかすといふ事こそ、小説の一番普通の魅力である。無論これは、小説といふものの根本の魅力であり、かういふ魅力を持たぬものは、小説とはまづ言へないのであるが、普通の讀者はこの魅力以上の魅力を小説から求めようとはしない。前にも書いた通り、耳をふさいで冒険小説を讀む子供の小説の讀み方から一向進歩しようと努めない。

 自分を忘れ去るといふ習慣は、小説の濫讀によつていよいよ深くなつて来る。つまり小説を無闇に讀んでゐる裡に、自分を失ひ、他人を装ふ術が、知らず識らずに身に付いて来るのである。

 ハドソンの「ラ・プラタの博物學者」といふ本のなかに、死を装ふ本能について、狐の話が書いてある。狐は危険が迫ると死んだ振りをする。時々うす眼ををあけて、もう大丈夫かどうか確める。大丈夫と見定めると、そろそろ立ち上つて逃げ出す。その術策は巧妙を極めてゐて、犬なぞは完全に欺されるさうであるが、あんまり巧妙過ぎて本當に死んで了は話もあるさうで、或る人が實驗したら、胴體を切斷して了ふまで死んだ振りをしてゐたと言ふ。

 讀んだ時、吹き出しさうにをかしかつたが、考へてみると、小説に毒されて、他人を装ふ術がすつかり身について了ひ、本當に嘘との區別がつかなくなつて了つてゐる様な文學好きの例には、屢々出會ふ事を思へば、あまり狐を笑へたものではないのである。
 實地に何かやつてみるまでもなく、小説を讀んでゐれば實地に何でもやつてゐる氣になれるので、實地に何もやらなくなる。じつと坐つては人生を經驗した錯覺を樂しみ時を過ごす様になる。例へば、戀愛を装ふ術が身について了ふと實際の戀愛なぞ何物だかわからなくなつて了ふ、本當に戀愛の相手を見付けても、戀愛してゐるのか、自ら省みて何が何やらわからぬと言つた様な事になる。

 この様な事になるのも、小説の讀み方といふものを眞面目に考へてみた事がないからだ、ただ小説を、自分を失ふ一種の刺戟の様なものとして受け取つてゐるからだ。だからやがて中毒するのである。
 これは小説ばかりではない、いろいろな思想の書物についても言へる事だ。讀書といふものは、こちらが頭を空にしてゐれば、向うでそれを充たしてくれるといふものではない。讀書も亦實人生の經驗と同じく眞實な經驗である。絶えず書物といふものに讀者の心が目覺めて對してゐなければ、實人生の經驗から得る處がない様に、書物からも得る處はない。その意味で小説を創るのは小説の作者ばかりではない。讀者も又小説を讀む事で、自分の力で作家の創る處に協力するのである。この協力感の自覺こそ讀書のほんたうの樂しみであり、かういふ樂しみを得ようと努めて讀書の工夫を爲すべきだと思ふ。いろいろな思想を本で學ぶといふ事も。同じ事で、自分の身に照らして書いてある思想を理解しようと努めるべきで、書いてある思想によつて自分を失ふ事が、思想を學ぶ事ではない。戀愛小説により、自分を失ひ他人の戀愛を装ふ術を覺える様に、他人の思想を装ふ術を覺えては駄目だと思ふ。」
(「婦人公論」。昭和十四年十一月)

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posted by Fukutake at 11:04| 日記