「幸・不幸の分かれ道」ー考え違いとユーモアー 土屋賢二 東京書籍
2011年
笑うということ p172〜
「われわれは不幸を避けようと努力しますが、どれほど力を尽くしても不幸は避けられません。どんな人でも老いるし、病気になるし、最後は死にます。全力を尽くしてどうやっても避けられない不幸な出来事に襲われたら、じっと耐えるしかないんでしょうか。そんなことはありません。まだ笑うことが残っています。
笑うということは、不幸な事態から重要性をはぎ取ることです。不幸な事態そのものを消してしまうことはできませんが、それを重視しなければ受けるダメージは少なくなります。ユーモアのセンスというのは、深刻になったときに、「そんな深刻じゃない」と思う能力のことだと思います。ちょうど、ラジオのどの局を回しても気に入らない音楽しかやっていなかったときに、ボリュームを下げるのに似ています。ものごとの重要性をはぎ取るところにユーモアや笑いの本質があると思うんです。
一番重要視しやすいのは、自分を見舞う不幸です。それに立ち向かう最後の手段は、そういう災難に対して、「災難よ、お前のことなんか重要じゃないよ」という態度をとることです。重大視して深刻な態度をとればとるほど打撃が大きいから、「お前のことなんか大したことはない」と思うことなんです。ちょうど勝てない相手に、「あかんべー」をするのと似ています。それは「お前のことなんか、ちっとも重要じゃないよ」という宣言です。
これが笑いやユーモアだと思います。重要に思っていることでも、大したことはないという視点を見つけられる能力がユーモアのセンスだろうと思います。そして、その視点を見つけたときに笑いが起こるのだと思います。これこそ、人間が不幸な事態に立ち向かう最後の武器になるんです。
笑いは人間に必要です。それは、人間は、不幸なことや欠点や自分に課す規範などを重要視しすぎるからです。他の動物と違って、人間は過度に重要視して深刻になってしまうからこそ、そこから解放される必要があるんです。
とくに深刻になりやすいのは、自分自身の不幸や欠点です。自分のことに関しては深刻になりやすくて、他人の不幸は笑えても、自分の不幸は笑えない。
イギリス人は、自分を笑う能力を大事にしていて、アメリカ人もそれを認めていました。
「イギリスのユーモアの特徴は何か」とアメリカ人に聞くと、アメリカ人にもユーモアのセンスはあるけど、イギリス人が自分を笑うところにはかなわないと答えました。
イギリスのテレビで、有名人を無茶苦茶こき下ろして笑う番組がありました。その番組をアメリカに輸出しようとしたら、いくら何でもこき下ろし方がひどすぎるという理由で実現しなかったという話も聞きました。それぐらいひどいけなし方をする番組です。その番組でよくやり玉にあがっていた労働党の政治家がいます。その政治家が、どこかの地方都市をレポートした文章を読んで、それが可笑しかったので注目していたんです。たとえば「市民たちの行進の様子は、イギリス人らしさを遺憾なく発揮して、足並みがバラバラだった」と書くような人なんです。その政治家は自分のエッセイの中で、「私もしょっちゅうその番組で取りあげられて、さんざんこき下ろされるんだけど、自分のことがケナされたら、本当にその通りだと思って笑ってしまう」と書いていました。」
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自分を嗤う。
ギロチン
「フランス革命夜話」 辰野隆 福武文庫 1989年
断頭吏サンソン p67〜
「前に私は、シャルロット・コルデーについて一文を草した。フランス大革命の末期、一七九三年の七月十三日、シャルロットは革命の大立者の一人マラーを刺し殺し、同月十九日、革命広場の断頭台上で、この二十五歳の佳人は首をはねられたのであるが、彼女の首だけは埋葬を免かれて、彼女の死後、頭蓋骨としてー 一説にはアルコール漬けとしてー 好事家の手から手へ渡った。しかも、そうした経緯も、大革命期の知名な断頭吏サンソンが、ひそかに、シャルロットの首を売ったからであろう。サンソンは表向きは革命政府に忠なる吏僚として、うらでは断頭業を商売としていたと伝えられている。彼の子孫がなみなみならぬ富を積んだことが何よりの証拠だという。
ざっと、以上のような次第を、私は俗説に拠って誌したのだが、ところで一九五三年の夏、「信濃毎日」の町田梓楼氏から、フランス革命に関する面白い記事を読んだから、大革命に興味を持っている君にお目にかける、という通信とともに、一九五一年のメルキュール・ド・フランスの二月一日号が私の机上に届けられた。二月一日号が「断頭吏サンソン」、十一月一日号は、「ルイ16世の刑死」で、筆者はロジェ・グーラール、フランス古文書学の古記録を調べて二つの記事を成したのである。
グーラールによると、首切り役人サンソンは、代々ルイ王家に忠誠な家柄の主人で、熱心なカトリック信者で、紳士で、断じて役目を利用して私利を図るような男ではなかった。彼の名はシャルル・アンリ・サンソン、一七三九年に生まれ、一八〇六年に死んだ。首切りは三代にわたる家の業であった。パリっ子で、少年時代から従順で、身だしなみが良かった。学校には通わず、家庭に神父を招いて教育を受けたのは、首切り役人の子として学校教育に従いにくかったのであろう。二十代の彼は中肉中背の青年紳士、好男子で、言葉づかいも正しくてやわらかく風姿も端正で空色の服がよく似合った。ルイ十五世末期に、サンソン流の服装がもてはやされたのも、彼の好みがすぐれていたからであろう。
彼の誠実謹直は全生涯を通じて変わらなかった。彼の知識には見るべきものがなかったが、つとに狩猟と園芸に心を用い、隣人を愛し、その愛は家畜にも及んだ。彼の妻もまた、きわめて温良で家事にいそしみ、よくしゅうとに仕えた。長男も父と同じ名のアンリ、後に父と家業を同じくしたが、要するにサンソン一家の私生活は、着実で豊かで静かで、由緒ある旧家の暮らし向きであった。」
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断頭台の紳士?
断頭吏サンソン p67〜
「前に私は、シャルロット・コルデーについて一文を草した。フランス大革命の末期、一七九三年の七月十三日、シャルロットは革命の大立者の一人マラーを刺し殺し、同月十九日、革命広場の断頭台上で、この二十五歳の佳人は首をはねられたのであるが、彼女の首だけは埋葬を免かれて、彼女の死後、頭蓋骨としてー 一説にはアルコール漬けとしてー 好事家の手から手へ渡った。しかも、そうした経緯も、大革命期の知名な断頭吏サンソンが、ひそかに、シャルロットの首を売ったからであろう。サンソンは表向きは革命政府に忠なる吏僚として、うらでは断頭業を商売としていたと伝えられている。彼の子孫がなみなみならぬ富を積んだことが何よりの証拠だという。
ざっと、以上のような次第を、私は俗説に拠って誌したのだが、ところで一九五三年の夏、「信濃毎日」の町田梓楼氏から、フランス革命に関する面白い記事を読んだから、大革命に興味を持っている君にお目にかける、という通信とともに、一九五一年のメルキュール・ド・フランスの二月一日号が私の机上に届けられた。二月一日号が「断頭吏サンソン」、十一月一日号は、「ルイ16世の刑死」で、筆者はロジェ・グーラール、フランス古文書学の古記録を調べて二つの記事を成したのである。
グーラールによると、首切り役人サンソンは、代々ルイ王家に忠誠な家柄の主人で、熱心なカトリック信者で、紳士で、断じて役目を利用して私利を図るような男ではなかった。彼の名はシャルル・アンリ・サンソン、一七三九年に生まれ、一八〇六年に死んだ。首切りは三代にわたる家の業であった。パリっ子で、少年時代から従順で、身だしなみが良かった。学校には通わず、家庭に神父を招いて教育を受けたのは、首切り役人の子として学校教育に従いにくかったのであろう。二十代の彼は中肉中背の青年紳士、好男子で、言葉づかいも正しくてやわらかく風姿も端正で空色の服がよく似合った。ルイ十五世末期に、サンソン流の服装がもてはやされたのも、彼の好みがすぐれていたからであろう。
彼の誠実謹直は全生涯を通じて変わらなかった。彼の知識には見るべきものがなかったが、つとに狩猟と園芸に心を用い、隣人を愛し、その愛は家畜にも及んだ。彼の妻もまた、きわめて温良で家事にいそしみ、よくしゅうとに仕えた。長男も父と同じ名のアンリ、後に父と家業を同じくしたが、要するにサンソン一家の私生活は、着実で豊かで静かで、由緒ある旧家の暮らし向きであった。」
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断頭台の紳士?
posted by Fukutake at 07:55| 日記