2022年02月11日

自分の死

「ぬるい生活」 群ようこ 朝日新聞社 2006年

みんな死ぬ p104〜

 「最近、私は更年期障害より、死についてよく考える。問題のある症状が出ていないから、それができるのかもしれない。今年は若い年下の友人が自ら命を絶ったり、同年輩の人が相次いで亡くなったりして、死が身近になったと以前にも書いた。私はお墓などなくていいし、葬式もしなくていいと思っているくらいなので、それについては悩んでいない。子供はいないし、これからも結婚する気もない。残して揉めるような資産もないから、これについても問題はない。私は必要ないと思っても、葬式ぐらいは出さないとと、周囲の人が考えてくれた場合、何もないと申し訳ないので、葬式代くらいは残しておかなくてはまずい。だいたい死後のことなどどうでもいい。たったひとつの希望は、うちのネコより長く生きるというそれだけである。それさえクリアできれば、あとは何も望まない。ところが寿命が尽きるまでは生きなくてはいけないので、それをどうするかがいちばんの問題なのだ。

 若い頃には死は怖かったが、それから逃れたいという、逃げの気持ちがあった。平均寿命からすると、私の年齢はまだこれからといわれるが、
「それ本当か?」
 と疑いたくなる。若い人よりもリスクは確実に多くなってきているのだから、逃げるよりも受け入れる方向に移らなくてはならない。もう無視できない年齢に入ってきている。自分の体に無防備に生きるのも、防御しながら生きるのもそれぞれの生き方だが、なるべく人には迷惑はかけたくないと、それだけは思う。

 後に残った人のために、自分の荷物はなるべく少なくしないとまずい。どこに何があるか、誰でもわかるようにしておく必要もあるだろうし、基本的に整理整頓は必要だ。ところが整理下手の私の部屋は、ものすごいことになっている。特に仕事が忙しくなってくると、部屋の中はごみため状態。洗濯物の乾いた順に積み上げ、必要なときは下からずるずると引っ張り出すといった具合である。こんなずさんな人間が、死について考える資格があるのかと、我ながら首をかしげる。そんな暇があったら、部屋を片づけたほうがいいんではないかという声も聞こえる。その通りである。ただ私には欲が残っていて、本もすべて処分できないし、身の回りの物も最小限にできない。こんな調子では、洗濯物が積み上げられた中に手を突っ込み、パンツをひきずり出している途中で息絶えたりするのではないかと、自分の間抜けた最期を想像して、うろたえているのである。」

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posted by Fukutake at 08:14| 日記