「井伏鱒二全集 第十二巻」 筑摩書房 昭和四十年
にほひ p115〜
「きなくさいにほひ、磯くさいにほひ、髪の毛のこげるやうなにほひ、ニンニクくさいにほひ、サンマを燒くにほひ、その他いろいろとにほひの名稱がありますが、赤とか青とか紫色とか云ふやうに、にほひには抽象された名稱がないのは何故でせう。いろんな理由のうち、その一つは、にほひといふものが非常に個性的だからではないでせうか。にほひは他のにほひと混合しやすいからではないでせうか。母乳を飲んでゐる赤んぼは母乳と同様のにほひですが、それよりまだにほひが強烈だ。しかるに赤ん坊のことは、母乳くさいと云はないで赤んぼくさいと云つてゐる。母乳のにほひに、何か他のにほひが混合してゐるためではないでせうか。
いろんなにほひのうちで、私のとりわけ愛着を覺えるのは、子供のときによくきいた御飯を焚くにほひ、味噌汁の煮えるにほひ、それから竃の煙のにほひです。私は田舎の生まれです。だから堆肥米を焚くにほひになつかしさを覺えます。ところが現在の私のうちでは、御飯を焚くときに臺所をのぞいても、瓦斯くさいにほひか、ラッキョウのくさいにほひを嗅がされるにすぎません。味噌汁を煮る場合にも、鰹節を削る音がいたづらに高く響いて来るだけで、ときには煮干で出しを取つてゐるにほひがして来るにすぎないのです。
味噌汁をこさへるには、私の田舎では夏の土用と冬の土用を三度以上くぐつた味噌と、若い一年味噌とを半々に混ぜ、味噌漉といふ小さな細長い笊で漉しながら鍋に入れたものでした。夕方、往還に出て近所の子供と遊んでゐても、自分のうちの御飯の焚けてゐるにほひがわかりました。次に、味噌汁の煮あがるにほひが往還までにほつて来る。すると、おなかがぐつとすいて来る。それを合圖に家に歸ると、おばあさんがみんなの箱膳を並べてゐる。焚きあがつた御飯と味噌汁のにほひが、ぷんぷん臺所ぢゆうに漂つてゐる。ことに新米のとれる晩秋の日の夕方は、御飯のにほひが一段と引きたつてゐたやうに覺えます。
竃の煙のにほひも悪くないものでした。もう私はこのにほひを嗅ぐことは諦めを持つて来ましたが、ひところ谷川の釣りに凝つてゐた當時は、山の宿でよくこのにほひに堪能する機會がありました。釣つた魚を圍炉裡で燒いてゐるときなど、焚火の煙が痛いほど目にしみなくては満足とは云へない氣持ちでした。」
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昔はどこでもそうだった。「御飯だよ」という母の声が…。
神隠しの不思議
「あの世からのことづてー私の遠野物語ー」松谷みよ子 筑摩書房
いなくなった女の子 p133〜
「いま高崎で書店を営んでいる小沢清子さんが、小学校一年生のとき、疎開先の新潟で出会ったことだという。
昭和二十年の秋のはじめだった。農家の若夫婦が三つになる女の子を連れて山仕事にいった。女の子は父親にせがんで木の枝を折ってもらい、そこらをたたいて、まわらぬ舌でうたいながら、ひとりあそびをしていた。
いつものことなので気にもせず。若夫婦は仕事をしていたが、ふと気がつくと女の子がいない。昼の弁当になっても姿をみせない。さすがに心配になって呼び歩いたがどこにも見えず、町内の人をたのんで大勢で山狩りをした。
秋のこととて日の暮れるのは早く、提灯が用意された。カネやタイコを鳴らして、かやせ、戻せと呼び歩く声、ちらほら動く提灯の火がなんとも怖かったという。それが三晩も四晩も続いたが、なんとしても女の子の姿は見えなかった。
「こんねに探してもめっからなければ、神かくしだべ」
そういう声も聞こえた。狐だという人もいた。両親はおはぎや赤飯をつくり、山のそこここにある狐の穴に供え、どうか我が子を返してくれと泣きさけんだ。
どのくらいたったか、いなくなったあたりの、すぐそばの竹やぶで、その子は見つかった。その場所ならすでに何百回となく探したところであった。
そしてその子は何日も食べずにいたはずなのに、ふっくらと肥って、肌もつやつやと、愛らしい姿であったという。ただ全身にひっかき傷があった。町の人たちは、
「狐にだまされて引きまわされたんだいね」
「子をなくした狐が、あんまりこの子が可愛げで、さらっていって乳をくれていたか」といいあった。
南蒲原郡見附町は今でこそ市になり急行も停まるが、当時は十分も歩けば終わってしまう小さな町であった。
*
小さな女の子といえば長野県下水内郡栄村屋敷でも、ふっとかき消すようにいなくなったことがあって部落中総出で探した。やはりカネタイコで、呼び歩くのである。それでも見つからない。幾日か経って、また、ふっと現われた。部落のはずれの薬師堂の梁の上に、その女の子はちょこんと座っていたのである。村人は、お薬師さまにさらわれたんでないかといった。
松本の教師である細川修氏が村の人から聞いた話で、こうした話は各地に限りなくあるのである。」
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神隠し
いなくなった女の子 p133〜
「いま高崎で書店を営んでいる小沢清子さんが、小学校一年生のとき、疎開先の新潟で出会ったことだという。
昭和二十年の秋のはじめだった。農家の若夫婦が三つになる女の子を連れて山仕事にいった。女の子は父親にせがんで木の枝を折ってもらい、そこらをたたいて、まわらぬ舌でうたいながら、ひとりあそびをしていた。
いつものことなので気にもせず。若夫婦は仕事をしていたが、ふと気がつくと女の子がいない。昼の弁当になっても姿をみせない。さすがに心配になって呼び歩いたがどこにも見えず、町内の人をたのんで大勢で山狩りをした。
秋のこととて日の暮れるのは早く、提灯が用意された。カネやタイコを鳴らして、かやせ、戻せと呼び歩く声、ちらほら動く提灯の火がなんとも怖かったという。それが三晩も四晩も続いたが、なんとしても女の子の姿は見えなかった。
「こんねに探してもめっからなければ、神かくしだべ」
そういう声も聞こえた。狐だという人もいた。両親はおはぎや赤飯をつくり、山のそこここにある狐の穴に供え、どうか我が子を返してくれと泣きさけんだ。
どのくらいたったか、いなくなったあたりの、すぐそばの竹やぶで、その子は見つかった。その場所ならすでに何百回となく探したところであった。
そしてその子は何日も食べずにいたはずなのに、ふっくらと肥って、肌もつやつやと、愛らしい姿であったという。ただ全身にひっかき傷があった。町の人たちは、
「狐にだまされて引きまわされたんだいね」
「子をなくした狐が、あんまりこの子が可愛げで、さらっていって乳をくれていたか」といいあった。
南蒲原郡見附町は今でこそ市になり急行も停まるが、当時は十分も歩けば終わってしまう小さな町であった。
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小さな女の子といえば長野県下水内郡栄村屋敷でも、ふっとかき消すようにいなくなったことがあって部落中総出で探した。やはりカネタイコで、呼び歩くのである。それでも見つからない。幾日か経って、また、ふっと現われた。部落のはずれの薬師堂の梁の上に、その女の子はちょこんと座っていたのである。村人は、お薬師さまにさらわれたんでないかといった。
松本の教師である細川修氏が村の人から聞いた話で、こうした話は各地に限りなくあるのである。」
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神隠し
posted by Fukutake at 08:05| 日記