2022年02月07日

歌舞伎の黒衣

「秀十郎夜話」ー初代吉右衛門の黒衣ー 千谷道雄 冨山房百科文庫 1994年

p22〜

 「(彼(秀十郎)は自分が受け持った幕の開く前に、必ず一度舞台を仔細に点検する。戸障子の開け閉て、出道具の居所を確かめ、二重*の板の上をしつこいほど丹念に撫でてみる。『太閤記』十段目が上演された折に見ていると、彼は毎日下手の薮畳*の前へ行って、秀光の使う槍竹をそのなかから抜いてみる。そうしてそうしていちいち枝を払って、それをまたもう一度元のように嵌め込んで、薮のなかに挿してから帰って来る。そうしておかないと、幕が開いてからそれが気に懸って仕方がないというのである。)

 性分ですかねえ、こればっかりは…。 道具方にうるさがられることもよくありますよ。一つにはしかし、新十郎*にやかましく躾けられたせいもある。師匠はよく言ってました。幕が開くとから閉まるまでの一切合切は、皆後見の責任だってね。実際もよくトチるんです。『寺子屋』の芝居で、松王が首桶を開けたら中に首が入ってなかったなんて話がある。この間も、文箱に短冊を入れ忘れて、大騒ぎをしてましたろう。 …いや、他人事じゃない。私も合引き*を忘れていって、ベソをかいたことがありました。ありゃあ何の芝居だったかな。とにかく舞台裏で大道具とおハナ(花札)の相談なんかしていて、そのまま置きっ放しで出ちまったんで…。 気がついた時はもう遅い。師匠が中腰になって合引きを探している。取ってくる間なんぞありゃしません。南無三ってんで、自分の身体を持ってった、立て膝をして、肩で受けたんです。…怒ってましたよ。大将その時きゃ…。肩の上で「間抜け」とか、「こん畜生」とか言いながら、中敬(ちゅうけい、親骨をそらし、畳んでも半開きになる扇、高貴な人物が持つ)の尻でしきりに小突くんですが、こっちはこっちでいい加減の長丁場をフウフウいって尻に敷かれておりました。

(吉右衛門の『籠釣瓶』(籠釣瓶花街酔醒* かごつるべさとのえいざめ)が出た折にも、私はこんな話を聞いた。)

 どうも、こりゃ手前味噌で…いいえね。この芝居の殺しの場で、下手寄りに梯子段(階段)があるでしょう。私が毎日幕の開く前に行って、あの梯子段の手すりを上を、フウフウっと吹いてくるもんですから、大道具の幸ちゃんがこの間不服そうな顔をして言うんですよ。
「秀十郎さん。そんなところは何も、旦那あ触りゃしねえぜ」って…。そんで、私ゃ言ってやったんだ。
「そりゃお前さん、考えが足りねえよ。なるほど、うちの大将はあの手すりに掴まるようなところはねえ。が、大将の相手の八橋はどうだい。「八橋、ちょっと梯子を見てきてくりゃれ」ってところで、階下の様子を窺う時に、手すりに手を掛けるじゃあないか。そんな時黒い埃がついちまって、後で酌をしてやろうというところで、その埃だらけの手を出されたら、次郎左衛門もうんざりするだろう」
 そう言ってやりましたら、向こうもなるほどなあって感心したような顔をしておりましたがね。」

二重* 大道具用語。平舞台の上にさらに高くする二重屋体。
薮畳* 木の枠に1メートル前後の葉竹をすきまなく取り付けたもの
新十郎* 秀十郎の師匠
合引き* 主要な役の俳優が静止の形をとっている時に使用する腰掛の一種。

籠釣瓶花街酔醒* 次郎左衛門の名セリフ「花魁、そりゃあんまり…袖なかろうぜ…」

「秀十郎夜話」出稿 昭和三十二年、翌三十三年出版。読売文学賞を受賞された。

黒衣:舞台上で俳優の補助をする役割:「後見(こうけん) 、「後見」は、場面や作品によって紋付袴(もんつきはかま)や裃(かみしも)などさまざまな姿で登場するが、顔を隠して全身黒い衣裳を身に付けている「後見」は「黒衣(くろご)」とよばれる。

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posted by Fukutake at 10:05| 日記

日本人は南から

「海上の道」柳田國男 岩波文庫

まえがき よりp6〜

 「…日本人が主たる交通者であった時代、那覇の港が開けるまでの間は、(沖縄諸島の)東海岸地帯は日本と共通するものが多かったと想像できる。言葉なども多分現在よりも日本に近かったのだろうと思う。首里・那覇地方は一時盛んに外国人を受け入れて、十カ国ぐらいの人間がいたというから、東側とは大分事情が違うのであった。

 本島の知念・玉城から南下して那覇の港へ回航するのは非常に時間がかかる。その労苦を思えば宮古島の北岸へ行くのは容易であった。那覇を開いたのは久米島の方を通ってくる北の航路が開始されてからであるが、それは随時代のこととされている。この北の道はかなり骨の折れる航路で船足も早くなければならず、途中で船を修繕する所が必要であった。余程しっかりした自信、力のある乗手であるうえに、風と潮をよく知っている者でなくてはならなかった。

 沖縄本島は飛行機から見ればもちろんだけれども、そうでなくても丘の上にあがると東西両面の海が見える処がある。其処を船をかついで東側から西側へ越えれば容易に交通ができると考えるかもしれないが、しかし人の系統が違うとそう簡単には行かない。

 私が一番最初それを感じたのは、NHKの矢成君たちが国頭の安田(あだ)、安波(あは)の会話を録音してきたのを聞いたときである。最初は日本本土の人たちが移住して来たのではないかと思ったほど、こちらの言葉とよく似ていた。しかし直ぐにそれが間違いであり、もともと内地の言葉とそう変わって
いなかったのだということに勘づいた。東海岸と西海岸とはいくら距っていないけれども、文化発達の経路が違うために言葉や住民の構成などが異なっているのである。

 勝連文化と私は仮に呼んでいるのだが、その勝連文化と首里・那覇を中心とした文化、すなわち浦添文化とでも言うべきものとの間には、系統上の相違があったのではなかろうか。…

 往時わが国では如何なる船を使って南北の間を航海したのであろうか。専門の造船業者のなかった時代を考えると、船材の得られる場所をみつけて、そこで船を造って用いたに違いない。たとえば安芸の国、それに周防など、今も船材を多く出しているし、中世においては建築木材を出しており、奈良の大きな寺院の建立などには常に用材を供給していた。…」
(昭和三十六年)

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沖縄地方との交通
posted by Fukutake at 08:40| 日記