2022年02月06日

差別

「かいつまんで言う」 山本夏彦 中公文庫 1982年(初出 ダイアモンド社 1977年)

 差別 p71〜

 「当代の趣味人のひとりである柳宗悦は、利休と遠州を認めなかった。利休を権門に媚びる幇間、やり手ではあっても俗物、禅の境地には遠い男だと評した。遠州のごときは歯牙にもかけなかった。
 私は宗悦が当っているかどうか知らない。ただ、趣味人というものは、一流から末流まで他に寛容でないことをここに見るのである。

 芸人の世界は、他と区別しなければ成らない世界である。芸で区別するのが本来だが他でも区別する。芸人はついこの間まで、河原乞食とよばれて、一般から差別されていた。それなら互いにかばいあうと思うと反対である。
 のちに猿翁と称した先代の猿之助は、親が名門でないから、若いころ仲間にいじわるされたという。古いことを知るものが死に絶えたから、次第に檜舞台をふめるようになったが、世が世ならふめない役者だと聞いた。その間の事情は浪花節で察することができる。

 桃中軒雲右衛門は人気絶頂のころ、招かれて歌舞伎座へ出た。いま三波春夫が出るように出た。浪花節は「でろれん祭文(ざいもん)」と呼ばれて、それまで大道の芸だとさげすまれていた。それが檜舞台へ出るなら、われら歌舞伎俳優は、同じ舞台へあがるわけにはいかぬと、広い舞台に鉋をかけさせたという。
 浪花節も歌舞伎も、発祥は共に大道である。歌舞伎のほうが早く舞台にのぼり、浪花節は遅れてのぼったから、この騒ぎがあったのである。「梨園」というのは役者の世界をいう。役者が河原乞食なら、梨園の名門というのは、乞食のなかの名門というほどのことで笑止である。

 けれども、吉原の遊女は品川の女郎を一段低く見たという。品川は宿場である。あれは宿場の飯盛女郎だと笑ったのである。人は落ちるところまで落ちても、なお一段低いものを求めて、ばかにしないでは生きられない。
 私は若い男女に、給料は能力と能率に応じて払われたほうがいいか、年功序列によって払われたほうがいいか聞いたことがある。そして年功によって払われたほうがいいという答えを得た。何度も聞いて何度も同じ返事を得た。平等だからだという。故にどの企業も年功によって払っている。能力によって払おうと試みた企業もあるが、今はやめている。

 それでいて若者たちは、生きがいがないと嘆く。生きがいは自分と他人を区別することによって生じる。他が低いことによって生じる。私は人間はすべてそういうよからぬ存在だと認めた上で話をすすめたほうがいいと思うが、思わぬものが多い。それなら人はどれだけ偽善を欲するか、この世はどれだけの偽善を必要とするか、公開の席で論じたらいいと思うが、人はそれを欲しないようである。論じられないで今日にいたっている。」

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posted by Fukutake at 10:37| 日記