2022年02月05日

魂の不死

「パイドン」ー魂の不死についてー プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫

愛知者 p84〜

 「ソクラテス「私は、哲学に反すること、哲学のもたらす解放と浄化に反することは為すべきではないと考えて、哲学の導くような方向に、哲学に従いながら、向かうのである。」
 ケベス「どういう風にですか、ソクラテス」
 ソクラテス 「話してあげよう。つまり、学ぶことを愛する者なら知っていることだが、哲学がかれらの魂を世話しようと引き取ったときには、かれらの魂はどう仕様もなく肉体の中に縛られ糊付けにされている。かれらの魂は、牢獄を通してのように肉体を通して、存在するものを考察するように強いられ、けっして魂自身が魂自信を通して考察するこはない。その結果、魂はひどい無知の中で転げ回っているのだ。そして、この牢獄の恐ろしい点は、縛られている者自身が縛られていることの最大の協力者であるように、この牢獄が欲望によって成立していることなのであるが、このことを哲学は見抜くのである。ー こうして、何度も言うように、学ぶことを愛する者なら知っていることなのだが、哲学は、こういう状態にあるかれらの魂を引き取って穏やかに励まし、その魂を解放しようと努力する。目を通しての考察は偽りに充ちており、また、耳やその他の諸感覚を通しての考察もまた偽りに充ちていることを、哲学は示してやるのである。

 さらに、それらの感覚を用いることが不可避でない限りは、それらの感覚から引き退くようにと説得し、魂自身が魂自身の中へと集結し凝集するようにと激励するのである。そして、なんであれ存在するもののうちでそれ自体として独立にあるものを、魂が自分自身だけで理性的に把握しようとするならば、魂は自分自身以外のなにものをも信じないようにと励ますのである。これに対して、魂が自分自身以外の他のもの「諸感覚」を通していろいろな事物のうちにその度ごとに異なった姿を呈して現れるものを考察する場合には、そのようなものはなにも真ではない、と考えるように励ますのである。そのようなものは感覚されうるもの、見られうるものであり、これに対して、魂自身が見るものは知られうるもの、目に見えないものなのである。
こうして、本当の哲学者の魂はこの解放に反対すべきではない、と考えるから、その故に、快楽や、欲望や、苦痛や、恐怖をできるかぎり抑制するのである。というのは、本当の哲学者はこう判断するからである。人間があまりに強烈な快楽や、恐怖や、苦痛や、欲望を味わうと、それらの激情から、ただ単に、普通人々が考えるような程度の悪、たとえば、身体を駄目にしてしまうとか、欲望のために財産を台無しにしてしまうとか、そんな程度の悪を蒙るばかりでなくて、あらゆる悪のうちで、最大にして究極の悪を蒙るのであり、しかも、人々はそのことを考えてもみないのである、と」

 「その最大にして究極の悪とはなんでしょうか、ソクラテス」とケベスがたずねました。
「すべての人の魂は、なにかに激しい快楽や苦痛を感ずると、それと同時に、もっともそういう感覚を与えるものこそもっとも明白でもっとも真実であるー 本当はそうではないのにー と思い込まされる、ということだ。そういう思い込みを与えるものは、とりわけ、目に見えるものである。そうではないか」
 「まったくです」」

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感覚に騙されるな
posted by Fukutake at 08:16| 日記