「秋冬随筆 生活のたのしみ」三島由紀夫
「三島由紀夫全集31」 新潮社 1975年
p314〜
「或るアメリカ人の友人が劍道の稽古を見たいといふので、澁谷警察署の道場へつれて行き、私のいつもながらの、ザル碁ならぬザル劍を見てもらひ、友人は大いに興を催した様子であつた。古い警察署内部のゴタゴタした有様もめづらしかつたらうし、劍道着の姿、禮儀正しい舉措、竹刀のひびき、奇矯な縣聲にも、深い印象を受けたらしかつた。快く汗を流して、冷たいシャワーを浴びたあと、私は改めて劍道の日本人の姿の立派さを眺め、野球のユニフォームの醜悪さを非難したが、これには友人も全く同感だと言つた。
さて、そのあとで、新らしいホテルの開業披露に行き、十一階のバアから、窓外にひろがるネオンの夜景を眺め、音楽をききながら、チンザノ・オン・ザ・ロックスを呑み、のびやかな氣分にひたつた。
「全くちがつた二つの世界だね」と友人が言つた。
「これが東京のたのしみだね。外国ではその片つ方しか味はえない。又、日本の田舎でも、その片つ方しか味はへない、世界の大都會でも、かういふ全く正反對の二つの世界の両方をたのしめる町は一つもないぢやないか。二つの世界の両方に等分にひたり、その両方のいいところだけを満喫する。これ以上の贅澤があるだらうか」と私が言つた。
さういふ点では、かねがね、東京にまさる場所はないといふのが、東京っ子の私の自慢のたねである。ひとぎらひの氣分になつたときはホテルのバアで呑み、花やかな氣分のときはお座敷あそびをする。何もそんな高價な楽しみでなくても、おでん屋の屋臺で一杯やつたあくる日に、洋食を喰いに行くといふ生活は、誰しもやつていることである。さういふ口腹や色氣のたのしみばかりでなく、今日はレイ・チャールズをきき、明日は文楽を見る。晝は柔道の道場へゆき、夜はボクシングのテレビに熱狂する。こんな贅澤のできる國民は、世界にも稀である。
しかし日本人がみんな意識的にこれをたのしみ、本當に贅澤と知つて贅澤を味はつてゐるかといふと、疑問がある。外國生活の單一さを味はつた人が、はじめてこの多様性の贅澤に氣付くわけで、外國生活を知つてゐた古い軽井澤人種は、一方で西洋風の別荘生活を楽しみながら、一方で村の盆踊りによろこんで参加したが、ハイカラぶつた新興階級は、決して盆踊りに加わることはなかつたのである。…」
----
クールジャパンのはしり。