「小林秀雄全集 第六巻」− ドストエフスキイの生活− 新潮社版 平成十三年
讀書の工夫 p570〜
「小説といふものの一番普通の魅力は、讀者に自分を忘れさせるところにある。自分を忘れ、小説中の人物となり、小説中の生活を自らやつてゐる様に錯覺する樂しみ、この樂しみに身をまかすといふ事こそ、小説の一番普通の魅力である。無論これは、小説といふものの根本の魅力であり、かういふ魅力を持たぬものは、小説とはまづ言へないのであるが、普通の讀者はこの魅力以上の魅力を小説から求めようとはしない。前にも書いた通り、耳をふさいで冒険小説を讀む子供の小説の讀み方から一向進歩しようと努めない。
自分を忘れ去るといふ習慣は、小説の濫讀によつていよいよ深くなつて来る。つまり小説を無闇に讀んでゐる裡に、自分を失ひ、他人を装ふ術が、知らず識らずに身に付いて来るのである。
ハドソンの「ラ・プラタの博物學者」といふ本のなかに、死を装ふ本能について、狐の話が書いてある。狐は危険が迫ると死んだ振りをする。時々うす眼ををあけて、もう大丈夫かどうか確める。大丈夫と見定めると、そろそろ立ち上つて逃げ出す。その術策は巧妙を極めてゐて、犬なぞは完全に欺されるさうであるが、あんまり巧妙過ぎて本當に死んで了は話もあるさうで、或る人が實驗したら、胴體を切斷して了ふまで死んだ振りをしてゐたと言ふ。
讀んだ時、吹き出しさうにをかしかつたが、考へてみると、小説に毒されて、他人を装ふ術がすつかり身について了ひ、本當に嘘との區別がつかなくなつて了つてゐる様な文學好きの例には、屢々出會ふ事を思へば、あまり狐を笑へたものではないのである。
實地に何かやつてみるまでもなく、小説を讀んでゐれば實地に何でもやつてゐる氣になれるので、實地に何もやらなくなる。じつと坐つては人生を經驗した錯覺を樂しみ時を過ごす様になる。例へば、戀愛を装ふ術が身について了ふと實際の戀愛なぞ何物だかわからなくなつて了ふ、本當に戀愛の相手を見付けても、戀愛してゐるのか、自ら省みて何が何やらわからぬと言つた様な事になる。
この様な事になるのも、小説の讀み方といふものを眞面目に考へてみた事がないからだ、ただ小説を、自分を失ふ一種の刺戟の様なものとして受け取つてゐるからだ。だからやがて中毒するのである。
これは小説ばかりではない、いろいろな思想の書物についても言へる事だ。讀書といふものは、こちらが頭を空にしてゐれば、向うでそれを充たしてくれるといふものではない。讀書も亦實人生の經驗と同じく眞實な經驗である。絶えず書物といふものに讀者の心が目覺めて對してゐなければ、實人生の經驗から得る處がない様に、書物からも得る處はない。その意味で小説を創るのは小説の作者ばかりではない。讀者も又小説を讀む事で、自分の力で作家の創る處に協力するのである。この協力感の自覺こそ讀書のほんたうの樂しみであり、かういふ樂しみを得ようと努めて讀書の工夫を爲すべきだと思ふ。いろいろな思想を本で學ぶといふ事も。同じ事で、自分の身に照らして書いてある思想を理解しようと努めるべきで、書いてある思想によつて自分を失ふ事が、思想を學ぶ事ではない。戀愛小説により、自分を失ひ他人の戀愛を装ふ術を覺える様に、他人の思想を装ふ術を覺えては駄目だと思ふ。」
(「婦人公論」。昭和十四年十一月)
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2022年02月13日
欲望という名の電車
「欲望という名の電車」 テネシー・ウィリアムズ 小田島雄志訳 新潮文庫
p49〜
「ブランチ これでも私、若いころには男のかたの情熱を少しはかき立てたものよ。いまはごらんのとおりだけど! (輝くようにほほえみかける)ご想像できるかしら、この私もかつて ー 魅力的と思われた時代があったなんて?
スタンリー いまだって悪かないぜ。
ブランチ お世辞の一つも言ってくれるかと期待したのに。
スタンリー そういうばかなまねはしないことにしてるんでね。
ブランチ ばかなーまね?
スタンリー 女にむかってきれいだのどうのってお世辞を言うことさ。人に言われなきゃあ自分がきれいかどうかわからんような女には、まあお目にかかったことがないね、おれは、実際以上にしょってるような女には、まだお目にかかったことがないね、おれは。実際以上にしょってる女ならいるがね。昔つきあってた女の子で、しょっちゅう「あたしグラマーでしょ、グラマーでしょ」って言うのがいた、おれは言ってやったよ、「だからどうなんだ」ってね。
ブランチ そうしたら、その人、なんて?
スタンリー なんにも。はまぐりみたいに口をつぐんじまったよ。
ブランチ それでお二人のロマンスは終わったの?
スタンリー それで二人のおしゃべりが終わった、それだけのことさ。そういうハリウッド型グラマーに迷うやつもいるが、迷わない男だっているんだ。
ブランチ あなたは後者に属するのね。
スタンリー そうさ。
ブランチ どんな魔女のような女だって、あなたを迷わせることはできそうにもないわ。
スタンリー そりゃあ ーそうさ。
ブランチ あなたは単純で、率直で、正直で、それに少うし原始的なほう。だからあなたの気をひくには、女はどうしても ー (あいまいな身ぶりをしてことばをとぎらせる)
スタンリー (ゆっくり)スパッと ー手の内をさらすしかない。
ブランチ (ほほえんで)ええーええー手の内をね … たしかに、この人生にはつかみどころのないあいまいなものが多すぎるわ。私は強い、大胆な色、原始的な色彩で描く絵描きが好き。ピンクやクリーム色は好きになれない、人間もなまぬるい人は嫌いだったわ。だから、ゆうべあなたが帰ってらしたとき、胸のなかでつぶやいたのー 「妹が選んだ相手は男のなかの男だわ」ってーもちろんそれ以上私にはわかるはずないけど。
スタンリー (わめく)もうたくさんだ、ばか話は! 」
−
ブランチは、「欲望」という名の電車に乗って、「墓場」という電車に乗りかえて、「極楽」というところにやってきた。
p49〜
「ブランチ これでも私、若いころには男のかたの情熱を少しはかき立てたものよ。いまはごらんのとおりだけど! (輝くようにほほえみかける)ご想像できるかしら、この私もかつて ー 魅力的と思われた時代があったなんて?
スタンリー いまだって悪かないぜ。
ブランチ お世辞の一つも言ってくれるかと期待したのに。
スタンリー そういうばかなまねはしないことにしてるんでね。
ブランチ ばかなーまね?
スタンリー 女にむかってきれいだのどうのってお世辞を言うことさ。人に言われなきゃあ自分がきれいかどうかわからんような女には、まあお目にかかったことがないね、おれは、実際以上にしょってるような女には、まだお目にかかったことがないね、おれは。実際以上にしょってる女ならいるがね。昔つきあってた女の子で、しょっちゅう「あたしグラマーでしょ、グラマーでしょ」って言うのがいた、おれは言ってやったよ、「だからどうなんだ」ってね。
ブランチ そうしたら、その人、なんて?
スタンリー なんにも。はまぐりみたいに口をつぐんじまったよ。
ブランチ それでお二人のロマンスは終わったの?
スタンリー それで二人のおしゃべりが終わった、それだけのことさ。そういうハリウッド型グラマーに迷うやつもいるが、迷わない男だっているんだ。
ブランチ あなたは後者に属するのね。
スタンリー そうさ。
ブランチ どんな魔女のような女だって、あなたを迷わせることはできそうにもないわ。
スタンリー そりゃあ ーそうさ。
ブランチ あなたは単純で、率直で、正直で、それに少うし原始的なほう。だからあなたの気をひくには、女はどうしても ー (あいまいな身ぶりをしてことばをとぎらせる)
スタンリー (ゆっくり)スパッと ー手の内をさらすしかない。
ブランチ (ほほえんで)ええーええー手の内をね … たしかに、この人生にはつかみどころのないあいまいなものが多すぎるわ。私は強い、大胆な色、原始的な色彩で描く絵描きが好き。ピンクやクリーム色は好きになれない、人間もなまぬるい人は嫌いだったわ。だから、ゆうべあなたが帰ってらしたとき、胸のなかでつぶやいたのー 「妹が選んだ相手は男のなかの男だわ」ってーもちろんそれ以上私にはわかるはずないけど。
スタンリー (わめく)もうたくさんだ、ばか話は! 」
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ブランチは、「欲望」という名の電車に乗って、「墓場」という電車に乗りかえて、「極楽」というところにやってきた。
posted by Fukutake at 07:15| 日記
森茉莉へのオマージュ
「本取り虫 ー本を読むのをやめられないー」 群ようこ 筑摩書房 1994年
森茉莉 p65〜
「私は森茉莉の本、特にエッセイのファンである。『贅沢貧乏』は何度読み返したかわからない。どういうきっかけで彼女の本を読むようになったのかは記憶にないのだが、読み始めたら最後、途中で本を手から離すことができなくなった。とにかく一ページ目から、彼女の世界にひきずりこまれ、ちょっとやそっとでそこから抜け出られなくなった。もちろん友だちにも『贅沢貧乏』を勧めた。ある人は私と同じように彼女の世界にどっぷり浸かるようになり、ある人は憐憫の情をあらわにした。
「かわいそうね、森茉莉って。鴎外の娘でお嬢さん育ちだったのに、歳をとって貧乏暮らしをしていたんでしょう。中年をすぎて、ああいう生活をしなきゃならないなんて辛いわね」
私はこのときほど、さまざまな考えを持った人がいるのを実感したことはなかった。かつてはお屋敷に住み、身のまわりの世話をしてくれる女性たちがいたような暮らしをしていた森茉莉が、ボロアパートの六畳ひと間で生活しているのを、その友だちは哀れだと思った。そしてこうはなりたくない、とも語ったのだ。きっとこのような人は、森茉莉の読者にはならないだろうし、なれない。世間でいうところの、いい暮らし。地位も名誉も財力もあって、人にうらやましがられる生活、それは多くの人々が望んでいるものなのだろうが、森茉莉という人は、そんなこととは全く関係ないところで生きていた。だから私は彼女のことが好きなのだ。
『贅沢貧乏』は、親と同居していた学生のころは、ひとり暮らしのお手本として、ひとり暮らしをするようになってからは、心の慰めになった。この本の核になっているのは、「自分」を好きになる気持ちである。他人にどうみえるか、他人にどう思われるかという自分ではなく、「自分がやりたいように生きている自分」の姿があるのだ。当時、私は何かといえば人の目が気になっていた。細かいことでいえば、「こんな服を着たら、みんなに笑われるんじゃないか」「ヘアスタイルを変えたいけれど、妙な格好になったらどうしよう」といったことであり、ひとり暮らしをしていて、他人にだらしがない、きちんとしていないなどと思われたら困ると、いつも他人に自分がどうみえるかをぴりぴりと考えていた。その前に、
「自分はどうしたいのか」
と思ったりはしなかったのだ。
そんなとき、森茉莉の本を手にとると、肩の凝りがほぐれていくようだった。友だちがいったように、たしかに世間の水準、彼女の生いたちからすれば、情けない毎日かもしれない。しかし、本の中の彼女はとてものびのびしている。私は彼女ののびのびした生き方のおすそわけをもらって、自分のとがった神経を癒していたのだ。」
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森茉莉 p65〜
「私は森茉莉の本、特にエッセイのファンである。『贅沢貧乏』は何度読み返したかわからない。どういうきっかけで彼女の本を読むようになったのかは記憶にないのだが、読み始めたら最後、途中で本を手から離すことができなくなった。とにかく一ページ目から、彼女の世界にひきずりこまれ、ちょっとやそっとでそこから抜け出られなくなった。もちろん友だちにも『贅沢貧乏』を勧めた。ある人は私と同じように彼女の世界にどっぷり浸かるようになり、ある人は憐憫の情をあらわにした。
「かわいそうね、森茉莉って。鴎外の娘でお嬢さん育ちだったのに、歳をとって貧乏暮らしをしていたんでしょう。中年をすぎて、ああいう生活をしなきゃならないなんて辛いわね」
私はこのときほど、さまざまな考えを持った人がいるのを実感したことはなかった。かつてはお屋敷に住み、身のまわりの世話をしてくれる女性たちがいたような暮らしをしていた森茉莉が、ボロアパートの六畳ひと間で生活しているのを、その友だちは哀れだと思った。そしてこうはなりたくない、とも語ったのだ。きっとこのような人は、森茉莉の読者にはならないだろうし、なれない。世間でいうところの、いい暮らし。地位も名誉も財力もあって、人にうらやましがられる生活、それは多くの人々が望んでいるものなのだろうが、森茉莉という人は、そんなこととは全く関係ないところで生きていた。だから私は彼女のことが好きなのだ。
『贅沢貧乏』は、親と同居していた学生のころは、ひとり暮らしのお手本として、ひとり暮らしをするようになってからは、心の慰めになった。この本の核になっているのは、「自分」を好きになる気持ちである。他人にどうみえるか、他人にどう思われるかという自分ではなく、「自分がやりたいように生きている自分」の姿があるのだ。当時、私は何かといえば人の目が気になっていた。細かいことでいえば、「こんな服を着たら、みんなに笑われるんじゃないか」「ヘアスタイルを変えたいけれど、妙な格好になったらどうしよう」といったことであり、ひとり暮らしをしていて、他人にだらしがない、きちんとしていないなどと思われたら困ると、いつも他人に自分がどうみえるかをぴりぴりと考えていた。その前に、
「自分はどうしたいのか」
と思ったりはしなかったのだ。
そんなとき、森茉莉の本を手にとると、肩の凝りがほぐれていくようだった。友だちがいったように、たしかに世間の水準、彼女の生いたちからすれば、情けない毎日かもしれない。しかし、本の中の彼女はとてものびのびしている。私は彼女ののびのびした生き方のおすそわけをもらって、自分のとがった神経を癒していたのだ。」
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posted by Fukutake at 07:07| 日記