「漱石全集 第二十二巻」初期の文章 岩波書店
人生 p217〜
「空を劃して居る之を物といひ、時に沿うて起こる之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ、猶麕身牛尾馬蹄のものを捉えて麟といふが如し、かく定義を下せば、頗る六つかしけれど、是を平仮名にて翻譯すれば、先ず地震、雷、火事、爺の怖きを悟り、砂糖と鹽の區別を知り、戀の重荷義理の柵抔いふ意味を合點し、順逆の二境を踏み、禍福の二門をくぐるの謂に過ぎず、但其謂に過ぎずと観ずれば、遭逢百端千差萬別、十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、千百萬人亦各千百萬人の生活を有す。故に無事なるものは午砲を聞きて晝飯を食ひ、忙しきものは孔席暖かならず、墨突點せずとも云ひ、變化の多きは塞翁の馬に辵をかけたるが如く、不平なるは放たれて澤畔に吟じ、壮烈なるは匕首を懷にして不測の秦に入り、頑固なるは首陽山の蕨に餘命を繋ぎ、世を茶にしたるは竹林に髯を拈り、圖太きは南禅寺の山門に晝寐して王法を懼れず、一々数へ来れば日も亦足らず、中々錯雑なものなり、
加之個人の一行一為、各其由る所を異にし、其及ぼす所を同じうせず、人を殺すは一なれども、毒を盛るは刄を加ふると等しからず、故意なるは不慮の出来事と云ふを得ず、時には間接ともなり、或は直接ともなる、之を分類するだに相應の手數はかかるるべし、況して國に言語の相違あり、人に上下の區別ありて、同一の事物も種々の記號を有して、吾人の面目を燎爛せんとするこそ益面倒なれ、比較するだに畏けれど、万乗には之を崩御といひ、匹夫には之を「クタバル」といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、而も死は即ち一なるが如し、若し人生をとつて鉄分縷析(るせき)するを得ば、天上の星と磯の眞砂の數も容易に計算し得べし
小説は此錯雑なる人生の一側面を寫すものなり、一側面猶且純ならず、去れども寫して神に入るときは、事物の紛糾亂雑なるものを綜合して一の哲理を教ふるに足る、われ「エリオット」の小説を讀んで天性の悪人なきを知りぬ、又罪を犯すもの恕すべくして且憐れむべきを知りぬ、一擧手一投足わが運命に関係あるを知りぬ、「サツカレー」の小説を讀んで正直なるものの馬鹿らしきを知りぬ、狡猾奸佞なるものの世に珍重せらるべきを知りぬ、「ブロンテ」の小説を讀んで人に感應あることを知りぬ、蓋し小説に境遇を叙するものあり、品性を寫すものあり、心理上の解剖を試むものあり、直覺的に人世を観破するものあり、四者各其方面に向かって吾人に教ふる所なきにあらず、…」
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若き漱石の創作への憧憬