2022年01月24日

死はタブーか

「「お迎え」されて人は逝く ー終末期医療と看取りのいまー」 奥野滋子 ポプラ新書

死を忘れた日本人 p121〜

 「古典や宗教書の中に、それぞれの時代の人たちの生きがい、死への思い、彼らの生きざま、死にざまを垣間見ることができます。そして、それらの生死観は決して単に古い物語の中のものではなく、現代の生き方にも通じるところがたくさんあると感じます。
 蓮如上人の「御文章」(『浄土真宗聖典』四帖、三百御詠歌)には、「それ秋も去り春も去りて、年月を送ること、昨日も過ぎ今日も過ぐ。いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえずしらざりき」とあります。

 大方の人は、人生の終末を見つめることなく、いたずらに年月を重ねてしまっていますが、自分らしく生きて、自分らしく死にたいなら、今こそ死生学を学ぶべきだと思うのです。何を優先し、何を切り捨てるかは、最終的には自分で決めるしかないのですが、そこにやはり死生観が大切であると思います。

 「お迎え」現象を知ることによって、つねに先祖や仲間の見守りの中に自分の存在がある、自分は孤独ではないという感覚を持てたなら、死はまた別のものになるのではと考えています。

 2012年に大学院は修了しましたが、これからもそうした経験を通し。医療者がもっと死について積極的に話す機会を設けないと考えています。患者側も、本当は死のことについて話したがっているのではないでしょうか。
 驚くことですが、小児病棟でも死の会話はよく耳にしました。
 病室でわいわい騒いでいるので「今、何を話していたの?」と聞くと、たいていすぐに静まり返る。でも、あとで看護師から話を聞くと、
「一緒に遊んでいた3号室の〇〇ちゃん、死んじゃったみたい。お母さんがすごく泣いていたから」「死ぬってどうなるのかな?」「苦しいのかな」「僕もいつかは死んじゃうんだよね」「死んだら星になるってママが言ってた」「星かぁ。そんなに遠くに行っちゃったらもう会えないね」「私が死んじゃったらパパかママがかわいそう」
 そのような会話を、子どもたちはいていたようです。

 私たち大人には、そしてとりわけ医療者の前では死の話をしてはいけないと子どもながらに思っているのかもしれません。病院では死はタブーだということを、子どもたちは大人たちのそぶりを見ながら感づいていたのです。そんな子どもたちと本音で寄り添える大人がいれば、こころのケアにつながるのではないでしょうか。」

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死を知る

posted by Fukutake at 08:49| 日記