「宮崎市定全集 22」 日中交渉 岩波書店 1992年
幕末の攘夷論と開国論(その2) p320〜
「佐久間象山の開国論に共鳴した吉田松陰が、安政元年(一八五四)、日米仮条約調印の直後、米船に投じて密航しようと計ったことはあまりにも有名な逸話である。その松蔭が長州へ送り返されて蟄居を命ぜられると、今度は急に攘夷論に早替わりしたのはなぜか。これは長州という土地固有の利己的攘夷論に同化されたと考えなければ、何としても理解できない不思議である。松蔭はまだ年が若かったせいもあるが、こういう点からみればたいして見識のある人物ではない。何となれば、長州のような所においてこそ、もっと大局を見通した開国論が必要であったのだ。
まえに述べたように、薩長は鎖国政策によって莫大な利益をあげている。ところが幕府がその鎖国政策を取り消して、横浜を開港し、ここで欧米諸国と貿易を開始するとなると、日本の対外貿易の中心は横浜に移り、幕府の直接統治下にある江戸付近が富強になって、ひいては幕府そのものも若返って勢力をもりかえしてこないともかぎらない。そして、清国がすでに諸外国に向かって港を開いた後であるから、清国の物資も欧米人の手を通じて、横浜、さらには神戸から、直接日本の中央部に運ばれてきそうな形勢にある。そのときには、長州の萩や、薩摩の鹿児島のような僻地の密貿易港は完全にその存在意義を失ってしまうのだ。これは藩の生命にかかわる重大事である。是が非でも今のうちにもみ消して、幕府の開国体制をくつがえさなければならない。これが薩摩と長州とに利害の共通した立場であり、大きな声で外部に向かってはいえないが、内部に対しては別に言をまたずしてわかる自明の理であったのである。
そこで新たな意味をもった攘夷運動は、薩長二藩によって、全力をあげて展開され、執拗に継続されたのである。幸いに二藩は当分の間、幕府も及ばないほど財政に余裕がある。そこで思い切って金銀をばらまき、自藩の脱走者にはもちろん、他藩の浮浪人をも誘って、尊王攘夷を強調し、その陰で攘夷論をしのばせて、徳川政権を揺り動かそうとしたのであった。
こういう金づるをもたない山国信州から出た佐久間象山のような政客は、だから哀れなものであった。あくまで真正直な開国論で、きたない攘夷論に立ち向かう。それはほとんど単身素手で、組織のある暴力団のまん中へとびこむようなものである。その立場はいきおい既成の秩序に従って、世界の変化に追いつこうとする、公武合体の開国論を唱えるよりほかはなかったのである。しかもその既成勢力はまったく腐敗していてだらしなく、味方の身上を保護するだけの熱意も組織も持ち合わせていなかった。」
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薩長・攘夷から開国への舞台裏