2022年01月21日

攘夷と開国

「宮崎市定全集 22」 日中交渉 岩波書店 1992年

幕末の攘夷論と開国論(その1) p318〜

 「ゆらい薩摩と長州とは、徳川幕府にとって最も警戒すべき外様の大藩であった。しかしながら、単に石高からいえば、薩摩の島津氏の七十七万石は加賀前田家の百二万石に及ばず、長州毛利氏の三十六万石に至っては、広島浅野氏の四十二万石、仙台伊達氏の六十二万石、その他にもこれを凌駕する大藩が存在する。その間にあってなにゆえに薩長二藩だけが、幕末あのように精力的な活動をなしえたのであろうか。理由はいたって簡単である。藩の財政が豊富であったからにすぎない。

 しからばなにゆえに薩長二藩の財政が豊富であったかといえば、皮肉にも、それは幕府の鎖国政策の結果であったのである。周知のように、幕府は長崎一港をオランダと清国に解放し、これを幕府直接の統制下におき、他の大名は何人たりとも諸外国と直接交通貿易してはならないことを厳命したのである。しかし実際問題として、海は広く海岸線は長いので、密貿易を徹底的に取り締まることは困難であった。そしてすべて経済統制は、きびしければきびしいほど、密貿易の利益はそれに比例して多くなるものなのである。この密貿易を、挙藩一致して大々的に行ったのが、実に薩摩と長州であった。
 薩摩は密貿易に対して最も恵まれた条件の下にある。それは琉球を臣属させているからで、琉球へ通うためだといえば大きな船も造れ、琉球を通じて中国と貿易ができる。そのうえに自国の海岸地方へ清朝船を招きよせたりして盛んな密貿易をやったものである。

 次に長州は朝鮮に近い。朝鮮との交通は、本来ならば対馬の宗氏があたるはずであるが、対馬自体はほとんど産物がないから、本土の力を借りなければならない。そこで実際には朝鮮貿易の実利をつかむのは長州であった。そのほかに対清国密貿易も抜け目なくやっていたらしい。そして長崎から遠いことがかえってその密貿易を容易ならしめたと思われる。
 八代将軍吉宗が就任すると、彼は西海岸の密貿易を取り締まろうと思いたった。享保二年(一七一七)、幕府は長州・福岡・小倉の各藩に命じて、海上の清国姦商の密貿易をたくらむ者を拿捕させているが、文面だけを見れば、これほどばかげた話はない。藩の後援がなくてどうして密貿易ができようか。この命令は実は暗に幕府が密貿易をやっている西方諸藩に対して警告を発しているものとしか受け取れないのである。しかしそんなことでひるむような薩長ではない。
 薩長二藩にとっては、幕府の鎖国政策は何十万石の加増にもまさる恩恵であった。まさに鎖国さまさまである。そこへ起こってきたのがヨーロッパ諸国の黒船の渡来、続いて開国論の擡頭であった。ところで開国が実現されれば、彼らの密貿易の利益は当然なくなってしまう。

 季節風を無視し、いつまでも蒸気船が渡来してくるというような新情勢に対して、普通の判断力を備えたものならば、開国の止むべからざることを悟るのは当然である。第一に鎖国令を下した本尊の徳川幕府からして、開国に踏み切らざるを得なかった。ところがそこへ強い抵抗が起こった。第一は京都の朝廷を中心とする頑迷派であるが、これはかえって処理しやすい。頑固な人間には臆病者が多いからである。ところが最も扱いにくいのは、第二の薩長を中心とする利己的な、きたない攘夷論者であって、その本音は自分たちの密貿易の利益を温存するにあった。」
(その2)に続く

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仇敵幕府を倒す名目としての「攘夷」
posted by Fukutake at 14:29| 日記

開戦前の荷風

「荷風の昭和」川本三郎 第三十九回 太平洋戦争下の日々 
「波 」2021年 8月号 新潮社 より p108〜

 「年が明けて昭和十八年の一月一日、独居老人(永井荷風)には華やいだ正月はない。この日、炭を惜しんで正午になるのを待って起き出す。台所で庭木の枯枝などで焜炉(こんろ)をに炭火をおこし、米一合をかしぐ。惣菜は芋もしくは大根蕪のたぐい。素食である。食事を終え、顔を洗っているうちに三時を過ぎ、煙草を吸っているともうあたりは暗くなる。「是(これ)去年十二月以降の生活。唯生きて居るというのみなり」。何事もなく一日が過ぎてゆく。

 そんな暮らしでも食糧は欠かせない。一月二十日、「風静にて暖なれば今日もまた食うものあさらむとて千住に行く」。
 荷風は以前から下町のほうが意外に物資が豊富なことに気づいていた。関東近県、いわゆる近所田舎に近いためだろう。荷風は開戦前から、食糧を求めて下町を歩いている。

 例えば昭和十六年九月五日。「玉の井広小路に罐詰問屋あり。市中にはなき野菜の罐詰など此店に有り。小豆黒豆の壜詰もあ利。其向側の薬局には蜂蜜有り。北海道より直接に取寄せる由店の者のはなしなり。此日浅草にて夕飯を喫し罐詰買ひに行きぬ」。

 玉の井の陋巷に思いがけず、山の手ではなかなか手に入らない品を売っている店があった。そこで荷風は麻布市兵衛町の自宅から玉の井に出かけてゆく。以前は、小説を書くための、あるいは風雅な趣味としての下町散策だったが、それが食糧調達のために変わってきている。生活のためいたしかたない。さらに人形町あたりにも出かける。
 昭和十六年九月十八日、「水天宮門外に漬物屋二件並びてあり。いづれも品物あしからず。人の噂に梅干もよき物はやがて品切となるべければ今の中(うち)畜へ置くがよかるべしと云ふに、今夕土州橋まで行きたれば立寄りて購ひかえリぬ」。

 さらにまた、開戦後の昭和十七年二月十八日。「午後浅草向嶋散歩。実は場末の小店には折々売残りのよき罐詰あり又汁粉今川焼など売るところもあれば暇ある時定めず歩みを運ぶなり」。
 下町、あるいは「場末」も店のほうが品不足になっていない。意外な「発見」である。下町歩きはお手のもの。それまで趣味で下町散策を楽しんできたが、ここにきてそれが役立ってきている。
 荷風は、空襲が来るなら来ればよい、「生きてゐたりとて面白くなき国なれば焼死するもよし」(昭和十八年九月二十八日)と自棄(やけ)になったように書いたりするが、他方では「とは言ひながら、また生きのびて武断政府の末路を目撃するも一興ならむ」(同日)とも思う。こちらのほうが本当のところだろう。そのためにも、食糧調達の下町歩きを欠かさない。」

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posted by Fukutake at 08:33| 日記