「柳田邦夫「遠野物語」−− 名著再發見」 三島由紀夫
「三島由紀夫全集34」 新潮社 1975年
p399〜
「柳田國男氏の「遠野物語」は、明治四十三年に世に出た。日本民俗學の發祥の記念塔ともいふべき名高い名著であるが、私は永年これを文學として讀んできた。殊に何回よみ返したかわからないのは、その序文である。名文であるのみではなく、氏の若き日の抒情と哀傷がにじんでゐる。魂の故郷へ人々の心を拉し去る詩的な力にあふれてゐる。
「天神の山には祭ありて獅子踊あり。茲にのみは輕く塵たち物聊かひらめきて一村の高ノ映じたり。獅子踊と云ふは鹿の舞なり。(中略)笛の調子高く歌は低くして側にあれども聞き難し。日は傾きて風吹き酔ひて人呼ぶ者の聲も淋しく女は笑ひ兒は走れども猶旅愁を奈何ともする能わざりき」
この一章の
「茲にのみ輕く塵たち紅き物聊かひらめきて…」といふ、旅人の旅情の目に映じた天神山の祭りの遠景は、ある不測の静けさで讀者の心を充たす。不測とは、そのとき、われわれの目に、思ひかけぬ過去世の一斷面が垣間見られ、遠い祭りを見る目と、われわれ自身の深層の集合的無意識をのぞく目とが、−−
一定の空間と無限の時間とが−−、交叉し結ばれる像が現出するからである。
又、探訪された聞書の無数の挿話は、文章の上からいつても、簡潔さの無類のお手本である。言葉を吝しむこと金を吝しむが如くするエコノミーの極致が見られる。しかも、完結しないで、尻切れとんぼで、何ら満足な説明も與へられない斷片的挿話が多いから、それはもちろん語り手の責任であるが、それが却つて、言ひさしてふと口をつぐんだような不測の鬼氣を呼ぶ。
柳田氏の學問的良心は疑ひやうがないから、ここに収められた無數の挿話は、ファクトとしての客観性に於いて、間然とするところがない。これがこの本のふしぎなところである。著者は探訪された話について何らの解釋を加へない。それはいはば、民俗學の原料集積所であり、材木置き場である。しかしその材木の切り方、揃へ方、重ね方は、絶妙な熟練した木こりの手に成つたものである。データそのものであるが、同時に文學だといふしぎな事情が生ずる。すなはち、どの話も、眞實性、信憑性の保證はないのに、そのやうに語られたことはたしかであるから、語り口、語られ方、その恐怖の態様、その感受性、それらすべてがファクトになるのである。ファクトである限りでは、學問の對象である。しかし、これらの原材料は、一面から見れば、言葉以外の何ものでもない。言葉以外に何らたよるべきものはない。遠野といふ山村が實在するのと同じ程度に、日本語といふものが實在し、傳承の手段として用ひられるのが言葉のみであれば、すでに「文學」がそこに、輕く塵を立て、紅い物をいささかひらめかせて、それを一村の高ノ映してゐるのである。…」
(<初出>讀賣新聞・昭和四十五年六月十二日)
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民俗学文献であり、文學であり、詩であり、日本原住の思い出である。
2022年01月11日
三島由紀夫の遠野物語
posted by Fukutake at 09:39| 日記
日本人の英語
「100分で名著 特別授業 養老孟司 ー夏目漱石ー 読書の学校」 NHK出版 2018年
英語は必要な人だけ学べ p76〜
「二〇二〇年には小学校三、四年生から英語教育が導入されることになったと聞きました。幼稚園でも五割が英語を教えています。まだ日本を話せない0歳児から英語教室に通う人もいるらしい。
日本では、何歳から始めるか、早いほうがいいのか、そればかりが注目されています。もっと大事なことは、日本語を使う我々が英語を学ぶとはどう言うことか、これについての議論です。
英語を使う脳と日本を使う脳、これは様々な言語がある中で、最も使う脳の部分が離れていると言われています。だからそもそも日本人には難しい。
また、それ以前に、日本人が全員、正しい英語を話す必要なんんでない。外国人の中に日本語がちゃんとできる人がいるように、日本人の中に英語ができる人もいるのは当然で、お互いそういう人がいれば事足りる。必要な人だけ学べばいい。全員がやる必要は全くないと思います。
いまやアジアでの共通言語は正しい英語ではありません。ブロークン・イングリッシュです。それが共通語として成立している。
「ネイティブな発音を幼いうちに身につけさせたい」「早く教えないと正しい発音が聞き取れない」なんて馬鹿げている。そんなものは大して役に立ちません。
私に場合、英語で論文を書いていた時期もありますが、そのためには英語の頭に切り替えないと書けませんでした。日本語で考えて文章を作ってから英語に訳していくのでは、全く別のものになってしまうのです。
私には言葉にこだわりがあるので、英語で論文を書く時は、英語でものを考えて書いていました。適切な表現が見つかるまで英語で考え続ける。そうすると、日本語なら三日で書ける論文も一ヶ月もかかってしまうことになる。
日本では英語を常に使う環境にありません。しばらく英語を使わないと、英語の語彙はどんどん減っていく。いくつか英語で論文を書きましたが、それ以降は、バカバカしくなってやめました。その時間にほかのことができるからです。
言語にはその言葉を使う人たちの文化や考え方が含まれます。
上智大学のイギリス人の教授から、こんなことを聞いたことがあります。彼は日本語がとても上手でした。日本語で四時間教授会に行った後、ロンドンの出版社から彼のところに電話がかかって来た。しばらく話している間にカンカンに怒って、電話に相手を怒鳴りつけたといいます。電話を切って一時間ぐらい経ってから、その教授は大いに反省していました。
「日本語で考えていたからあんなに腹が立ったんだ」
どういうことかわかりますか。イギリスでの英語の会話の中では普通だとされているやりとりでも、そのまま日本語に訳して聞いていると、日本の社会では非常に失礼なやりとりになってしまうことがあるのです。…
結論を言うと、自分がその国の価値観にどの程度慣れているのか、どの程度理解できているかということに比例して言葉が上手になるのが望ましい。言葉だけが上手いのは、考えものなんです。」
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言語は仕草、文化、習慣。
英語は必要な人だけ学べ p76〜
「二〇二〇年には小学校三、四年生から英語教育が導入されることになったと聞きました。幼稚園でも五割が英語を教えています。まだ日本を話せない0歳児から英語教室に通う人もいるらしい。
日本では、何歳から始めるか、早いほうがいいのか、そればかりが注目されています。もっと大事なことは、日本語を使う我々が英語を学ぶとはどう言うことか、これについての議論です。
英語を使う脳と日本を使う脳、これは様々な言語がある中で、最も使う脳の部分が離れていると言われています。だからそもそも日本人には難しい。
また、それ以前に、日本人が全員、正しい英語を話す必要なんんでない。外国人の中に日本語がちゃんとできる人がいるように、日本人の中に英語ができる人もいるのは当然で、お互いそういう人がいれば事足りる。必要な人だけ学べばいい。全員がやる必要は全くないと思います。
いまやアジアでの共通言語は正しい英語ではありません。ブロークン・イングリッシュです。それが共通語として成立している。
「ネイティブな発音を幼いうちに身につけさせたい」「早く教えないと正しい発音が聞き取れない」なんて馬鹿げている。そんなものは大して役に立ちません。
私に場合、英語で論文を書いていた時期もありますが、そのためには英語の頭に切り替えないと書けませんでした。日本語で考えて文章を作ってから英語に訳していくのでは、全く別のものになってしまうのです。
私には言葉にこだわりがあるので、英語で論文を書く時は、英語でものを考えて書いていました。適切な表現が見つかるまで英語で考え続ける。そうすると、日本語なら三日で書ける論文も一ヶ月もかかってしまうことになる。
日本では英語を常に使う環境にありません。しばらく英語を使わないと、英語の語彙はどんどん減っていく。いくつか英語で論文を書きましたが、それ以降は、バカバカしくなってやめました。その時間にほかのことができるからです。
言語にはその言葉を使う人たちの文化や考え方が含まれます。
上智大学のイギリス人の教授から、こんなことを聞いたことがあります。彼は日本語がとても上手でした。日本語で四時間教授会に行った後、ロンドンの出版社から彼のところに電話がかかって来た。しばらく話している間にカンカンに怒って、電話に相手を怒鳴りつけたといいます。電話を切って一時間ぐらい経ってから、その教授は大いに反省していました。
「日本語で考えていたからあんなに腹が立ったんだ」
どういうことかわかりますか。イギリスでの英語の会話の中では普通だとされているやりとりでも、そのまま日本語に訳して聞いていると、日本の社会では非常に失礼なやりとりになってしまうことがあるのです。…
結論を言うと、自分がその国の価値観にどの程度慣れているのか、どの程度理解できているかということに比例して言葉が上手になるのが望ましい。言葉だけが上手いのは、考えものなんです。」
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言語は仕草、文化、習慣。
posted by Fukutake at 08:17| 日記