「日本の弓術」 オイゲン・ヘリゲル述 柴田治三郎訳 岩波文庫
p61〜
(オイゲン・ヘリゲルは語る)
「仏教は日本民族の文化と生活形態を広い範囲にわたって規定し、かつこれに特色を与えて来た。いわゆる悟りを開くのは、つねに比較的少数の人間に限られているので、仏教の作用はもちろん直接ではなく、いろいろの術を仲介としたものである。術と言えば、日本人はだれでも、少なくとも一つの術を習得して、生涯これを行っている、と言うことができる。もちろんそれが墨絵の基礎となり出発点となる「書」の術に過ぎない場合もある。弓術はすべての上級学校で随意科目として教えられている。剣術も同様である。それゆえ、これらの術の精神に触れる者の数が非常に多いことは、言わずとしれたことである。ところがこれらの術は、いずれもその特性に応じて、色々と違った形で、またそれぞれ異なった程度に、仏教の精神を取り入れているので、それらの術の人心に及ぼす作用は一定の明白な現れ方を示すものとは、期待すべきではないであろう。
これらの術を会得すれば、平然としていても心に隙がなく、無心に行動しても意志が最後まで持ち耐(こた)えられ、無私な態度の中にも自己が確実に保たれるようになる、という見解がしばしば主張されるが、それは確かにその通りである。しかしそれは一つの副作用に過ぎなく、禅の雰囲気とはきわめて関係の浅いもので、他の場合にはまったく異なった条件のもとにも現れるうることである。無私の態度は、ヨーロッパ人の自己崇拝と異なり、日本人の精神生活にとって見きわめのつかないほどいちじるしいものではあるが、これさえも一概に仏教の成果と見ることはできない。その根元は元来日本の民族精神の中に求めるべきであり、しかもこれは自然ならびに歴史によって規定され、仏教と接触しない以前からすでに力づよい動きを見せていたのである。その後仏教が影響を及ぼし始めた時は、早くも一つの重要な足場が仏教に保証されていた。日本民族は仏教を自分に適合したもの、自分と精神的に親和性のあるものと考えたにちがいない。そこで日本民族にとっては、自然に成長して来た日本的存在様式の根本特徴が仏教によって承認されるのを見た上で、その後それを意識的に深めて行って身についた態度にするということだけが残っていた。もちろんそれだけでも十分ひろい意義のあることである。
しかしそれはそれだけに留まらなかった。日本人にとっては、己の民族の既成の秩序になんの摩擦もなしに順応するのは当然のことであるのみならず、その秩序のためには自己の生存をさえ泰然として犠牲にし、しかもそのために仰々しく騒ぎ立てられることはない。ここに初めて、仏教の及ぼした影響の成果と。同時にそれに基づくもろもろの術の持つともなしに持っている教育的な価値の成果とが、明らかに現れる。この内面の光によって、死も、祖国のためにみずから進んで求める死さえも、崇高な清祓(せいふつ)を受け、同時にあらゆる恐怖は跡方もなく消え失せる。仏教ならびにすべての真の術の練磨が要求する沈思とは、単純に言うならば、現世および自己から訣別ができ、無に帰し、しかもそのためにかえって無限に充されることを意味する。…」
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ものは考えよう
「紳士の言い逃れ」土屋賢二 文藝春秋(文春文庫)
幸運な男 p87〜
「思わぬ発見は思わぬときに訪れる。わたしが幸運な男だということを発見したのは、世界経済と円高が危機的状況に陥り、世界経済の先行きとわたしの先行きに胸を痛めながら、初サンマのおいしさに感動してたときだった。
この時期、サンマはまだ少し高いが、和牛より安い。いわんや同じ大きさの金やダイヤモンドより安い。ダイヤモンドを食べることを考えたら、ものすごくトクである上に歯も欠けない。
初サンマは脂がのっていて、大根下ろしに醤油をつけて食べると、世界経済や締め切りのことを忘れるほどおいしい。実際に試してみると、仏教伝来の年号も一昨日の夕食も思い出せない。生まれてからこれほどおいしいサンマを食べたことがあるかどうかも思い出せない。
このときだ。自分の幸運に気がついたのは。日本人に生まれて幸運だった。サンマを食べてはいけない国やサンマの生息しない星に生まれなくてよかった。とくにサンマや大根に生まれなくてよかった。
サンマに生まれていても不思議ではない。個体の少ないシロナガスクジラやトラよりも、ゴキブリやサンマに生まれる確率の方が高い。もしサンマに生まれていたら、ロクデモナイ男に食べられ、腹の皮下脂肪として蓄えられるばかりか、駄文のタネにされるのだから浮かばれない。魚だけに。
そう考えると、わたしは幸運な男だ。時期も恵まれている。四十六億年にのぼる地球の歴史の中で、ティラノサウルスではなくサンマと同時期に居合わせたのは奇跡のような幸運だ。さらに、おいしいものは身体に悪いと決まっているが、現在、サンマのような青魚は身体にいいとされ、身体に悪い成分はまだ発見されていない。今がチャンスだ。
さらに考えているうちに、サンマを離れても信じられないほどの幸運だということが分かってきた。もしわたしが超イケメンだったら(わたしもその一人だが、幸いなことにだれもイケメンとは気づかれていない)、みっともないことはできなかっただろう。落とした十円玉が転がって行くのを追いかけたあげく、自販機の下に入ったのをはいつくばって取るようなことはできなかっただろう。
オシャレでないのも幸運だった。オシャレと定評があれば、わたしの服装は袋だたきにあっただろう。食通でないのも幸運だった。食通だったら「サンマと牛丼さえあれば何もいらない」と本音を言ったら厳しい非難にさらされていただろう。トップアスリートでないのも幸運だった。短距離ランナーなのに、百メートルの最高タイムが十五秒、しかも三回に一回は完走できないとなれば、口をきわめて罵倒されるだろう。
気品がない(と思われている)のも幸運だった。もし気品があればわたしが書いている風格に欠ける文章はとても書けないところだ。
問題になるとすれば、大学教授をしていたことだ。大学では信用できない男という評判を確立していたから問題はなかったが、今後は教育したという経歴のために、無知をさらすわけにはいかない。だが哲学の場合、ソクラテスが「無知の知」を主張してくれている。それを徹底し「わたしは何も知らない。知らないことも知らない」と「無知の無知」を主張すれば、無知を責められる怖れはない。専門が哲学で幸運だった。
要するに、傑出した人物でなくてよかった。傑出していなければ期待されず、期待されなければ責められない。期待されない人間である幸福をかみしめていると、「そのシャツ買ったばかりなのよ! サンマと醤油がこぼれているじゃないの!」という大声が轟いた。さほど幸運でないかもしれない。」
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幸運な男 p87〜
「思わぬ発見は思わぬときに訪れる。わたしが幸運な男だということを発見したのは、世界経済と円高が危機的状況に陥り、世界経済の先行きとわたしの先行きに胸を痛めながら、初サンマのおいしさに感動してたときだった。
この時期、サンマはまだ少し高いが、和牛より安い。いわんや同じ大きさの金やダイヤモンドより安い。ダイヤモンドを食べることを考えたら、ものすごくトクである上に歯も欠けない。
初サンマは脂がのっていて、大根下ろしに醤油をつけて食べると、世界経済や締め切りのことを忘れるほどおいしい。実際に試してみると、仏教伝来の年号も一昨日の夕食も思い出せない。生まれてからこれほどおいしいサンマを食べたことがあるかどうかも思い出せない。
このときだ。自分の幸運に気がついたのは。日本人に生まれて幸運だった。サンマを食べてはいけない国やサンマの生息しない星に生まれなくてよかった。とくにサンマや大根に生まれなくてよかった。
サンマに生まれていても不思議ではない。個体の少ないシロナガスクジラやトラよりも、ゴキブリやサンマに生まれる確率の方が高い。もしサンマに生まれていたら、ロクデモナイ男に食べられ、腹の皮下脂肪として蓄えられるばかりか、駄文のタネにされるのだから浮かばれない。魚だけに。
そう考えると、わたしは幸運な男だ。時期も恵まれている。四十六億年にのぼる地球の歴史の中で、ティラノサウルスではなくサンマと同時期に居合わせたのは奇跡のような幸運だ。さらに、おいしいものは身体に悪いと決まっているが、現在、サンマのような青魚は身体にいいとされ、身体に悪い成分はまだ発見されていない。今がチャンスだ。
さらに考えているうちに、サンマを離れても信じられないほどの幸運だということが分かってきた。もしわたしが超イケメンだったら(わたしもその一人だが、幸いなことにだれもイケメンとは気づかれていない)、みっともないことはできなかっただろう。落とした十円玉が転がって行くのを追いかけたあげく、自販機の下に入ったのをはいつくばって取るようなことはできなかっただろう。
オシャレでないのも幸運だった。オシャレと定評があれば、わたしの服装は袋だたきにあっただろう。食通でないのも幸運だった。食通だったら「サンマと牛丼さえあれば何もいらない」と本音を言ったら厳しい非難にさらされていただろう。トップアスリートでないのも幸運だった。短距離ランナーなのに、百メートルの最高タイムが十五秒、しかも三回に一回は完走できないとなれば、口をきわめて罵倒されるだろう。
気品がない(と思われている)のも幸運だった。もし気品があればわたしが書いている風格に欠ける文章はとても書けないところだ。
問題になるとすれば、大学教授をしていたことだ。大学では信用できない男という評判を確立していたから問題はなかったが、今後は教育したという経歴のために、無知をさらすわけにはいかない。だが哲学の場合、ソクラテスが「無知の知」を主張してくれている。それを徹底し「わたしは何も知らない。知らないことも知らない」と「無知の無知」を主張すれば、無知を責められる怖れはない。専門が哲学で幸運だった。
要するに、傑出した人物でなくてよかった。傑出していなければ期待されず、期待されなければ責められない。期待されない人間である幸福をかみしめていると、「そのシャツ買ったばかりなのよ! サンマと醤油がこぼれているじゃないの!」という大声が轟いた。さほど幸運でないかもしれない。」
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posted by Fukutake at 07:46| 日記