2022年01月04日

ヒトラーの生まれる時代

「われわれ自身のなかのヒトラー」 ピカート 佐野利勝訳 みすず書房

ヒトラーの出現を準備するものとしての「いとなみ」 p7〜

 「一九三二年、ドイツを旅行していたときのことであるが、或る日、ドイツの大政党の党首がわたくしを訪問して、一体ヒトラーがこんなに有名になり、こんなに多くの信奉者を獲得できたのはどうしたことだろう、とわたくしにたずねたことがある。わたくしはたまたま机のうえに置いてあった絵入新聞を指差して、どうぞ、それを見てください、と彼に答えた。第一面にはほとんど全裸の踊り子の挿絵が載っている、… 第二面では一個大隊の兵士が機関銃操作の訓練をうけており、そのすぐしたには実験室にいるX博士の写真がある、…第三面には十九世紀半ばから今日にいたる自転車の発達が挿絵で示されおり、そのわきに支那の詩が印刷されている、… さて第四面にはY工場の休憩時間における工員たちの体操の写真があり、そのしたに南米インディアンの一種族の結縄文字が印刷されている、そして、その真横に避暑地での衆議院議員A氏が立っている。 ……

 「現代人が外界の事物をうけ取るやり方はこうなのです、」とわたくしは言った、「現代人はあらゆるものを、なんの関連もない錯乱状態のままで、手当たりしだいに搔きあつめてくるのですが、それは、現代人のこころのなかも一種の支離滅裂な錯乱状態を呈していることの証拠にほかなりません。現代人は外界の諸事物に対しても、もはや確乎たる事実としてのそれに向かいあっているわけではなく、従ってもろもろの事物も、もはやそれぞれがただ一個のかぎりの独自のものとして人間の眼に映ずることもなくなっています。また現代人はもはや一つの特別な行為を通じて個々の事物に近づくこともしないのです。そうではなくて、こころの内部が支離滅裂な一種の錯乱状態を呈している現代人のところへ、外界の一種の支離滅裂な錯乱状態がうごいて来る、というのが実情です。したがって、何が我が身に降りかかりつつあるかは一向に吟味されない。人々は、とにかく何事かが起こり来たりつつあるという、そのことだけで満足なのです。そして、このような関連のない錯乱状態なかへは、どんなことでも、またどんな人物でも、容易にまぎれ込むことができるのは言うまでもありません。どうしてアドルフ・ヒトラーだけが紛れ込まないことがありましょう。さて、一旦ヒトラーがそこへ紛れ込めば、どのようにして彼がはいり込んだかには気づかれることがなくても、ヒトラーは事実上人間の内部におるわけで、そうなればヒトラーがただ単に人間のこころの中をちょっと通り過ぎるだけでおわるか、或いは彼が人間のこころの中にしっかりと喰い込んで離れないかは、彼アドルフ・ヒトラーの手腕しだいであって、もうわれわれ自身で勝手にどうこうすることのできる問題ではなくなるのです。」

 上述した、たとえば絵入新聞の、このような関連性喪失の状態も、ラジオに較べればよほど古臭くて、いわば今なお手工業の域を脱してうないものと言ってもよい。ラジオはこの関連性喪失の状態を機械的に運営することを引き受けたのである。」


今や、ラジオからテレビ、そしてネットへと支離滅裂さは関連性喪失の極に達している。しかも意図的に。ヒトラーより怖いビッグ・ブラザー。
posted by Fukutake at 10:13| 日記

ヒトラーの生まれる時代

「われわれ自身のなかのヒトラー」 ピカート 佐野利勝訳 みすず書房

ヒトラーの出現を準備するものとしての「いとなみ」 p7〜

 「一九三二年、ドイツを旅行していたときのことであるが、或る日、ドイツの大政党の党首がわたくしを訪問して、一体ヒトラーがこんなに有名になり、こんなに多くの信奉者を獲得できたのはどうしたことだろう、とわたくしにたずねたことがある。わたくしはたまたま机のうえに置いてあった絵入新聞を指差して、どうぞ、それを見てください、と彼に答えた。第一面にはほとんど全裸の踊り子の挿絵が載っている、… 第二面では一個大隊の兵士が機関銃操作の訓練をうけており、そのすぐしたには実験室にいるX博士の写真がある、…第三面には十九世紀半ばから今日にいたる自転車の発達が挿絵で示されおり、そのわきに支那の詩が印刷されている、… さて第四面にはY工場の休憩時間における工員たちの体操の写真があり、そのしたに南米インディアンの一種族の結縄文字が印刷されている、そして、その真横に避暑地での衆議院議員A氏が立っている。 ……

 「現代人が外界の事物をうけ取るやり方はこうなのです、」とわたくしは言った、「現代人はあらゆるものを、なんの関連もない錯乱状態のままで、手当たりしだいに搔きあつめてくるのですが、それは、現代人のこころのなかも一種の支離滅裂な錯乱状態を呈していることの証拠にほかなりません。現代人は外界の諸事物に対しても、もはや確乎たる事実としてのそれに向かいあっているわけではなく、従ってもろもろの事物も、もはやそれぞれがただ一個のかぎりの独自のものとして人間の眼に映ずることもなくなっています。また現代人はもはや一つの特別な行為を通じて個々の事物に近づくこともしないのです。そうではなくて、こころの内部が支離滅裂な一種の錯乱状態を呈している現代人のところへ、外界の一種の支離滅裂な錯乱状態がうごいて来る、というのが実情です。したがって、何が我が身に降りかかりつつあるかは一向に吟味されない。人々は、とにかく何事かが起こり来たりつつあるという、そのことだけで満足なのです。そして、このような関連のない錯乱状態なかへは、どんなことでも、またどんな人物でも、容易にまぎれ込むことができるのは言うまでもありません。どうしてアドルフ・ヒトラーだけが紛れ込まないことがありましょう。さて、一旦ヒトラーがそこへ紛れ込めば、どのようにして彼がはいり込んだかには気づかれることがなくても、ヒトラーは事実上人間の内部におるわけで、そうなればヒトラーがただ単に人間のこころの中をちょっと通り過ぎるだけでおわるか、或いは彼が人間のこころの中にしっかりと喰い込んで離れないかは、彼アドルフ・ヒトラーの手腕しだいであって、もうわれわれ自身で勝手にどうこうすることのできる問題ではなくなるのです。」

 上述した、たとえば絵入新聞の、このような関連性喪失の状態も、ラジオに較べればよほど古臭くて、いわば今なお手工業の域を脱してうないものと言ってもよい。ラジオはこの関連性喪失の状態を機械的に運営することを引き受けたのである。」


今や、ラジオからテレビ、そしてネットへと支離滅裂さは関連性喪失の極に達している。しかも意図的に。ヒトラーより怖いビッグ・ブラザー。
posted by Fukutake at 10:10| 日記

神皇正統記

「神皇正統記」 北畠親房著 松村武夫訳 教育社 

第五十代 桓武天皇 p158〜

 「第五十代、第二十八世、桓武天皇は光仁天皇の第一の皇子。御母は皇太后高野新笠(たかのにいがさ)で、贈太政大臣藤原乙継(おとつぐ)の娘である。光仁天皇は即位してすぐに井上内親王<聖武天皇の御娘>を皇后とした。井上内親王がお生みになった早良(さわらの)親王が皇太子にお立ちになった。ところが藤原百川朝臣が桓武天皇に皇位を継承させようと思って再び計略をめぐらし、皇后と皇太子を退かせて、ついに桓武天皇を皇太子にお据え申し上げた。へ

 その時、光仁天皇はしばらくの間これを許されなかったので、百川は四十日間も御殿の前に立ち通して許しを請うたということである。例のない忠烈の臣であることよ。皇后と前皇太子は責められてお亡くなりになった。その二人の怨霊をお鎮めになろうとしたためであろうか。早良皇太子には後に追号して崇道天皇と申し上げた。

 平安遷都
 桓武天皇は辛酉(かのととり)の年(七八一)に即位、壬戌(みずのえいぬ)の年(七八二)に改元された。初めは平城京におられた。その後、山背(やましろ)の長岡に遷都し十年ばかり都としたが、さらに現在の平安京に遷都なさった。山背の国をを改名して山城というようになった。永久にこの都が続くようにお取りはからいになった。昔、聖徳太子が蜂岡に登って<太秦がこれである>現在の地勢をぐるりとごらんになり、「ここは四神にふさわしい土地である。百七十余年後には、都を移して、以後は永久の都になるであろう」とおっしゃったと申し伝えている。その年数にもほぼ違わず、また遷都後は数十代の間ずっとかわらず都であったということは、まことに天皇が居を定めるにふさわしい福徳の地なのである。

 桓武天皇は大いに仏法を崇拝なさった。延暦二十三年(八〇四)には伝教大師と弘法大師が勅(みことのり)を賜って唐にお渡りになった。その時、唐朝へ使節を派遣された。遣唐大使は参議左大臣大弁兼越前守藤原葛野麿朝臣(かどのまろのあそん)である。伝教大師は天台の道邃(どうすい)和尚に会い、天台宗をきわめて延暦二十四年に遣唐大使とともに帰朝された。弘法大師はなおもかの国に留まって大同年中にお帰りになった。

 この御時代に東夷が反乱を起こしたので、坂上田村麻呂を征東大将軍として派遣されたところ、ことごとく平定して帰参された。この田村丸は武勇人にすぐれていた。初めは近衛の将監になり、次いで少将に移り、さらに中将に転じて、弘仁の御時であろうか、大将に上がって大納言を兼任した。武のみならず文の方面の才能も備えていたからであろうか、納言の官まで昇進したのであった。その子孫は現在でも文官として伝わっている。
 天皇は天下をお治めになること二十四年。七十歳でいらっしゃった。」

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posted by Fukutake at 10:06| 日記