2022年01月02日

足裏マッサージ

「肉体百科」 群ようこ 文春文庫 1994年

足の裏 p210〜

 「足の裏は人体の縮図だそうである。足の指が頭部、真ん中あたりが腹部といった具合に、全身と関係があるらしい。うちの母親がそのことを知っていたかどうかはわからないが、私は十代のころから、
「お風呂に入ったら、足の裏をマッサージしなさい」
といわれていた。

 あまり熱心にすすめるものだから、私も試しにやってみた。湯船につかりながら両足の親指から小指までぐりぐりやっていたら、体がほぐれていくような気はした。しかし当時は、徹夜をいくらやったって、平気な若い体だったので、そんなことをしなくても、元気はあり余っていた。私にはそれほど必要がないものだったのだ。
 しかし三十路を過ぎて、肩が凝る、腰が痛い、目が疲れる、などいろいろ問題が出てきた。
「そんなことをいったって、他の人に比べたらずっと元気ですよ」と年下の女性にいわれても、そんなものは無視して、
「つらいわあ」
とため息をついていたのである。

 ある日、友だちの家に遊びにいったら、台所に青竹踏みと、イボイボが突き出た、二十五センチ四方の足踏み用ゴム板が転がっていた。ブルータスお前もかと思いつつ、
「それで、具合はどうかね」
ときくと、青竹踏みはいいのだが、イボイボ板のほうには、まだ痛くて乗れない。横目でゴム板を眺めながら、
「いつかは乗ってやる」と悔しがっているのだ。

 十代のころは、ほとんど忘れていた足の裏のマッサージだが、ここにきてやっと。まじめに取り組もうかという気になってきた。最初は少し痛いところもあるが、やっているうちに気持ちがよくなってくる。だんだん足の裏が、ほかほかしてくるのがいい。しかしこれを毎日やっていると、今度は手の指が凝りそうになってきた。どうしたもんかと悩んでいたところ、たまたま目に入ったのが、足の裏をマッサージする棒の通販の広告であった。足のむくみに悩むスチュワーデスが、機内で使っていると書いてあったので、早速、取り寄せてみた。
 届いたのは木製のねじり棒であった。テレビを見ながら、三分間ごろごろと足の裏で転がすだけでいい。今の時期、ミカンを食べることが多いが、足の裏をマッサージしたあと、いくら手を石鹸で洗ったとはいえ、そのあとミカンを食べるのは気がひける。ところがこの棒があるとミカンを食べるのと、足の裏のマッサージが同時にできる。こんなに楽なことはない。他人から見たら不気味な姿だと思うが、結構、本人は気に入っているのである。」

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posted by Fukutake at 08:01| 日記

人間の評価

「漢詩名句 はなしの話」 駒田信二 文春文庫

棺(かん)を蓋(おお)いて事始めて定まる p60〜

 「(大意)
 捨てて顧みられることのない道端の池でも、また、むかし伐り倒されたままの桐の木でも、その一斛(一石)の古い水の中に竜がかくれていることもあるし、また、百年後に琴に作られることもあるのだ。人間の価値は生きているあいだには決まらない。棺桶に蓋をされてから、はじめて真価がわかるのだ。
 さいわいに君はまだ若いのだ。憔悴して山中に暮らしているなんて、惜しいことではないか。
 深山窮谷は君のような若者に居るところではない。雷や魍魎や狂風におそわれるだけだ。そんなところから早く出て来たまえ。

 君不見道邊廃棄池  君見ずや道辺廃棄の池
 君不見前者摧折桐  君見ずや前者摧折の桐
 百年死樹中琴瑟   百年の死樹琴瑟に中(あた)り
 一斛舊水蔵蛟龍   一斛の旧水蛟龍を蔵す
 大夫蓋棺事始定   大夫棺を蓋いて事始めて定まる
 君今幸未成老翁   君今幸に未だ老翁と成らず
 何恨憔悴在山中   何ぞ恨まん憔悴して山中に在るを
 深山窮谷不可處   深山窮谷処(おく)る可からず
 霹靂魍魎兼狂風   霹靂魍魎兼ねて狂風

杜甫(七一二ー七七〇)の「君不見簡蘇徯」(君不見、蘇徯に簡する)と題する楽府。(蘇徯は杜甫の友人の子。簡は手紙。)」

「君見ずや」と歌うのは楽府の一つの形である。 (「君不見ずや黄河の水天上より来たるを」や「君不聞かずや胡笳(ふえ)の声最も悲しきを」など。) 
 
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posted by Fukutake at 07:55| 日記