2022年01月17日

ヨーロッパをそんなにありがたがらんでもええ

「Kotoba」 コトバ13号 (創刊3周年記念号) 2013年秋号

京都人嫌いの、京大びいき 井上章一 p28〜

「(京都大学人文科学研究所の西洋部にいた研究者たちは、これに反論しました。これについて、先ごろ、私は目の覚めるような論文を見つけました。人文科学研究所にいた哲学者の上山春平さんが一九五〇年代末に書いたものです。上山さんは論文の中でこう主張しています。「フランス革命でいちばん革命的だったのは、ロベルピエール率いるジャコバン独裁の時である。しかし、そのジャコバン独裁でさえ、小作制度はなくしていない。地主制度を保っている。フランス革命の革命家たちは、地主や小作料のことを封建地代とは思っていなかった」というのです。イギリスのピューリタン革命でも農地革命は行われませんし。フランスに至っては二〇世紀初頭まで小作制度を保っていました。上山さんは続けます。「明治維新をブルジョワ革命でないというなら、フランス革命も革命とはいえない。一九三二年テーゼに従えば、フランス革命もブルジョワ革命でなくなる」

 講座派の影響を受けた東大の名だたる歴史家たちは、なぜ、フランス革命やイギリス革命を崇めたのか? 彼らには、「敗戦後の日本をなんとか近代化させねばならない」という使命感があったのだろうと私は思います。彼らはそのために、社会変革のお手本をイギリス、フランスに探ろうとしたのでしょう。その目論のなかで、「イギリスのヨーマンは、禁欲精神で額に汗して働き、産業革命に成功し、民主的な議会制度も確立した」という話を作りたかったのだと思います。…

 (東大の歴史学者らが)本当のイギリスやフランスの姿を知らなかったとは思えません。しかし彼らには、それらはどうでもよいことだったのかもしれません。日本の導きの手本となる理想のイギリス像、フランス像を描くことこそが大事だと考えたのではないでしょうか。

 大塚や高橋らの導くこの風潮に、京都大学人文研は修正をせまり続けました。ありのままの歴史をあらわそうとすることに、歴史家としての誇りをもっていた、と考えるのは私の身びいきでしょうか。大塚らが都合の悪い事実に蓋をする一方で、京都の学者たちはイギリスやフランスの明るくない側面をもとらえようとしました。…
 かみくだいていうなら「ヨーロッパをそんなにありがたがらんでもええ」ということになりそうです。」」

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posted by Fukutake at 09:09| 日記

十年後の千両

「日本の昔話」 柳田国男 新潮文庫

死後の占い p139〜

 「むかし北国街道のある寂しい村に、京都へ帰って行く旅人が、何人かの家来を連れて夕方に入って来て、他によい宿がなにので、路傍の大きな家の、女がただ一人で住んでいる所へ、頼んで一晩泊めて貰ったことがありました。次の朝早く起きて、その旅人が出て行こうとしますと、家主の女が後を追いかけて来て、あなたには金千両の貸しがあります。それを返して置いて立って下さいと言いました。家来たちは余りに突然な言いがかりに驚いて、怒ったり嘲笑ったりしているのを、主人は物静かに先ず待てと之を制して、兎に角後戻りをしてくわしく其話を聴きました。どういうわけがあるかも私は知りませぬが、父が亡くなる時に私を前に喚んで、十年後の今月の昨日、北の方から旅人が来て泊まるであろう。その人に話をすれば千両の金を返して下さるからとくれぐれも言い置いて死にました。それを楽しみにして待っているところへ、ちょうどその日にあなたが来て泊まられたので、間違いのないことだろうと思いましたと言うのです。成程それでよく解った。お前の父は占い師であったと思われる。それで十年も前に今日私の来ることが、知れていたからそう言い残したのであろう。よしよしそれならば千両の金を、今直ぐに返して上げようと旅人は言いました。

 実はこの旅人もまた有名な占い師であったのでした。それで再び昨夜宿を借りた大きなあばら屋に入って、家の中を方々あるいてまわりました。そうして最後に奥の間の一本の柱の傍に近よって、とんとんと叩いて見ました。その柱だけ中がうつろになっていて、他の柱とは音が別であります。お約束の千両はこの柱の中に入っている。すぐに取り出して成るだけ大事に使いなさいと言って、その旅人は京の方に帰って行きました。女の父親は十年も前から一度は自分の娘の困ることを知っていました。そうしてその為に八卦を見て、ちょうどその頃に京の優れた占い師が、来て泊まるということを見て置いたのでありました。易の術と親の愛情と、どちらか一つが備わらなかったら、とてもこういう計画は、立てることが出来なかっただろうということであります。」

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posted by Fukutake at 08:50| 日記

2022年01月14日

八雲と中国

「小泉八雲と近代中国」 劉岸偉 岩波書店 2004年

 「一九三〇年七月、上海日本研究社は雑誌『日本』を刊行した。第一号に、「逸塵」の署名で発表された。「発刊の詞」には、こんな言葉がある。

   日本という国といえば、政治的にしろ、あるいは地理的、文化的にしろ、過去も現在も、わが中国とは最も深く最も重要な関係をもっている。明治維新以来、彼らは朝野上下とも、伝統的で一貫した侵略政策に基づき、南進であれ、北進であれ、いずれもわが中国を侵略の目標にしてきた。…彼は刀であり、またまな板であり、我は俎上の魚であり肉である。なんと痛ましいことであろう。中国に対する日本の侵略が実行でしたのは、もとよりその海軍陸軍の強さ、兵器戦艦の先進さのためではあるが、しかし最も驚かされるのは、彼らの学術探偵隊である。東京の書店へ見に行くがよい。彼らの著した中国関係の書物がどれだけあるか数えられないほどである。

 日本における中国研究の資料書籍、機関団体、調査の実態など列挙した後、中国人の日本研究に触れて、夥しい数の留学生がいるにもかかわらず、まともな日本研究書といえば、黄遵憲の『日本国志』と戴季陶の近著『日本論』のほか、ほとんど見あたらない、と嘆いた。そして戴季陶の言葉を引用してこう続く。

   李陶先生が彼の日本論の中でいう。「中国という題目について、日本人はそれを解剖台にのせ、すでに何千回となく解剖し、また試験管に入れて何千回となく実験しているのだ。それにひきかえ、われわれ中国人は、ただ排斥と反対の一点ばりで、研究しようとしない。これはまるで思想における鎖国、知識における義和団も同然ではないか」。李陶先生の言葉は、なんと沈痛であり、なんと興味深いものであろう。(中略)
 われわれが日本研究を疎かにして、日本のことがわからないからこそ、それに欺かれるごとに、手も足も出ず慌てふためくのに対し、日本人は中国の奥底をはっきり窺うことができたからこそ、それを左右して向かうところ阻まれるものがないのである。…政治的立場であれ、学術的立場であれ、日本の国家、社会、文物のすべてを一体何なのか、と明白に解剖してみせなければならず、全国民の前にさらし出さなければならない。特に我が国の日本に留学している学生はこの重大な責務を負うべきである。我が国の留学生たちは、憚ることなく日本政治、経済のスパイをつとめ、日本社会、教育の探偵をつとめるべし。

 一九三一年、「満州事変」が勃発すると、タイムリーに抗日宣伝を行うために、雑誌は『日本評論』と改名され、一時、三日ごとに発行された。しばらく後にまた月刊誌に戻るが、時局の激変に伴い、内容はますます戦時色を深めていく。」
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posted by Fukutake at 07:37| 日記