2022年01月21日

開戦前の荷風

「荷風の昭和」川本三郎 第三十九回 太平洋戦争下の日々 
「波 」2021年 8月号 新潮社 より p108〜

 「年が明けて昭和十八年の一月一日、独居老人(永井荷風)には華やいだ正月はない。この日、炭を惜しんで正午になるのを待って起き出す。台所で庭木の枯枝などで焜炉(こんろ)をに炭火をおこし、米一合をかしぐ。惣菜は芋もしくは大根蕪のたぐい。素食である。食事を終え、顔を洗っているうちに三時を過ぎ、煙草を吸っているともうあたりは暗くなる。「是(これ)去年十二月以降の生活。唯生きて居るというのみなり」。何事もなく一日が過ぎてゆく。

 そんな暮らしでも食糧は欠かせない。一月二十日、「風静にて暖なれば今日もまた食うものあさらむとて千住に行く」。
 荷風は以前から下町のほうが意外に物資が豊富なことに気づいていた。関東近県、いわゆる近所田舎に近いためだろう。荷風は開戦前から、食糧を求めて下町を歩いている。

 例えば昭和十六年九月五日。「玉の井広小路に罐詰問屋あり。市中にはなき野菜の罐詰など此店に有り。小豆黒豆の壜詰もあ利。其向側の薬局には蜂蜜有り。北海道より直接に取寄せる由店の者のはなしなり。此日浅草にて夕飯を喫し罐詰買ひに行きぬ」。

 玉の井の陋巷に思いがけず、山の手ではなかなか手に入らない品を売っている店があった。そこで荷風は麻布市兵衛町の自宅から玉の井に出かけてゆく。以前は、小説を書くための、あるいは風雅な趣味としての下町散策だったが、それが食糧調達のために変わってきている。生活のためいたしかたない。さらに人形町あたりにも出かける。
 昭和十六年九月十八日、「水天宮門外に漬物屋二件並びてあり。いづれも品物あしからず。人の噂に梅干もよき物はやがて品切となるべければ今の中(うち)畜へ置くがよかるべしと云ふに、今夕土州橋まで行きたれば立寄りて購ひかえリぬ」。

 さらにまた、開戦後の昭和十七年二月十八日。「午後浅草向嶋散歩。実は場末の小店には折々売残りのよき罐詰あり又汁粉今川焼など売るところもあれば暇ある時定めず歩みを運ぶなり」。
 下町、あるいは「場末」も店のほうが品不足になっていない。意外な「発見」である。下町歩きはお手のもの。それまで趣味で下町散策を楽しんできたが、ここにきてそれが役立ってきている。
 荷風は、空襲が来るなら来ればよい、「生きてゐたりとて面白くなき国なれば焼死するもよし」(昭和十八年九月二十八日)と自棄(やけ)になったように書いたりするが、他方では「とは言ひながら、また生きのびて武断政府の末路を目撃するも一興ならむ」(同日)とも思う。こちらのほうが本当のところだろう。そのためにも、食糧調達の下町歩きを欠かさない。」

---


posted by Fukutake at 08:33| 日記

2022年01月19日

遠野の不思議な話

「遠野物語」 柳田国男 角川文庫

 遠野物語拾遺 p136〜

 「一六三 先年土淵村の村内に葬式があった夜のことである。権蔵という男が村の者と四、五人連れて念仏に行く途中、急にあっと言って道から小川を飛び越えた。どうしたのかと皆が尋ねると、俺は今黒いものに突きのめされた。いったいあれは誰だと言ったが、他の者の眼には何も見えなかったということである。

 一六四 深山で小屋掛けをして泊まっていると小屋のすぐ傍の森の中などで、大木が切り倒されるような物音の聞こえる場合がある。これをこの地方の人たちは、十人が十人まで聞いて知っている。初めは斧の音がかきん、かきんと聞こえ、いいくらいの時分になると、わり、わり、わりと木が倒れる音がして、その端風(はかぜ)が人のいる処にふわりと感ぜられるという。これを天狗ナメシとも言って、翌日行って見ても、倒された木などは一本も見当たらない。またどどどん、どどどんと太鼓のような音が聞こえて来ることもある。狸の太鼓だともいえば、別に天狗の太鼓の音とも言っている。そんな音がすると、二、三日後に必ず山が荒れるということである。

 一六五 綾織村の十七歳になる少年、先頃お二子山に遊びに行って、不意義なものが木登りをするところを見たといい、このことを家に帰って人に語ったが、間もなく死亡したということである。

一六六 最近、宮守村の道者たちが附馬牛口から、早池峰山をかけた時のことである。頂上が竜が馬場で、風袋を背負った六、七人の大男が、山頂を南から北の方へ通り過ぎるのを見た。なんでもむやみと大きな風袋と人の姿であったそうな。同じ道者たちがその戻り道で日が暮れて、道に踏み迷って困っていると、一つの光り物が一行の前方を飛んで道を照らし、その明かりでカラノ坊という辺まで降りることができた。そのうち月が上がって路が明るくなると、その光り物はいつの間にか消えてしまったということである。

 一六七 十年ほど前に遠野の六日町であったかに、父と娘と二人で住んでいる者があった。父親の方が死ぬと、その葬式を出した日の晩から毎晩、死んだ父親が娘の処へ出て来て、いっしょにあべあべと言った。娘は恐ろしがって、親類の者や友達などに来てもらっていたが、それでも父が来て責めることは止まなかった。そうしてこれが元で、とうとう娘は病みついたので、夜になると町内の若者たちが部屋の内で刀を振り廻して警戒をした。すると父親は二階裏の張板に取りついて、娘の方を睨むようにして見ていたが、こんなことが一月ほど続くうちに、しまいには来なくなったという。」

-----
posted by Fukutake at 14:10| 日記

2022年01月18日

なんでもありのアメリカ

「金融危機の資本論 ーグローバリゼーション以降、世界はどうなるのかー」
本山美彦 X 萱野稔人 青土社 2008年 

財政政策の変容とマネタリズムの誤り p113〜

 「萱野 一九八〇年代ぐらいから、アメリカでは財政政策が公共事業や教育などの直接投資に向かわずに、金融システムの保全のための金融政策へとシフトしていきました。日本でも、不良債権問題で膨大な公的資金が金融機関に注入されてから、財政政策はガラッと変わりましたよね。この流れも、フリードマンたちの新自由主義に支えられてできたものですね。
 本山 これは非常に重要なポイントです。要するに、大きな政府批判なんです。ある時期から財政出動は許されなくなりました。独立した中央銀行がお金を管理すればいいのであってそのために中央銀行はマーケットに金利変動のシグナルを出すなどして対話しろ、ということです。つまり、中央銀行とマーケットのあいだの問題なので、国家は黙れ、と。
 こうした発想は「インフレターゲット論」に顕著です。インフレ率を何パーセントに設定し、これを上回りそうなら金利を上げます、下回りそうなら金利を下げます。そのつもりで行動してください、というマーケットへの指示を出せばいいという立場がインフレターゲット論です。
 しかし、ここでの誤りは「金利だけ」ということだと思います。総需要を増やしたり、大きな問題に対処するためには、やはり財政出動が必要です。しかしそこには、大きな国家はダメだというイデオロギー的縛りがあったために、中央銀行の金利政策だけで対処するようになった。
 けれども、すでにケインズが明らかにした通り、通貨供給は銀行の貸出し行動(マネーサプライ)が増えることで増大するんです。いくら中央銀行がお金を出しても、そのお金が商業銀行から貸出しに回らないかぎり、社会全体のお金は増えません。
 そこが一番大きな、問題なのに、それを無視して短期資金をどんどん出すだけでは、いちばん必要なところまでお金はまわらずに、金融機関は貸しはがしをしながらお金を蓄積し、大きな投機へとお金がまわっていくのだろうと思います。…
 そして彼ら(市中の商業銀行)のいちばんの矛盾は、大きな政府批判をしながら、今回のような金融危機になるとなぜか国家に助けを求める、というところです。現在、市場類を見ないほどの財政出動がおこなわれています。かつての「大きな国家」を合算するよりも大きな規模で、公的資金が金融機関に注入されている。これこそ巨大な国家です。その巨大な国家にすがる彼らは何なのか、と思います。彼らのイデオロギーが単なる方便であって、本当のイデオロギーではなかったということですよね。

 スティグリッツが「貧乏人には市場原理と言い、金持ちには優しい保守主義だと言う」とあらわしていますが、的を射ています。要するに今回の金融危機でもお金は縮小していない。溢れているんです。そして溢れたお金が特定のところに集中している。
 以前、マイケル・ムーアがブログで書いていましたが、アメリカの上位四〇〇人の総資産は、下から一億五千万人の総資産より多いそうです。…
 アメリカではお金をどんどん増刷していますが、これもあまねく浸透する訳ではなく、特定少数の金融機関に集中しています。一方で、彼らはそのお金をどう使うか、まったく明らかにしていません。」

---
アメリカです。何でもやります。

posted by Fukutake at 09:46| 日記