2022年01月25日

更年期

「ぬるい生活」 群ようこ 朝日新聞社 2006年

更年期 p160〜

 「アンチエイジングについて、女性に対しては、中高年に消費してもらいたいせいか、痒いところに手が届く商品が発売されたり、精神的なケアも昔よりはなされるようになった。しかし男性に対してはまだまだで、外見だけではなく老いる現実についても、男性は意識が希薄のような気がする。外見は着こなし術やヘアケアなどでごまかされるかもしれないが、問題なのは内面のケアである。

 どんな家庭でも、年月が経てば経つほど、妻主導になるらしい。しかし妻のいうことを聞いておけば、万事収まると考えているのも問題だ。だいたい、既婚の男性のほとんどは、自分の体が動かなくなったとき、妻が自分の面倒を見てくれると思っている。そのためには、腹が立ってもなるべく妻には逆らわないようにしているという人もいる。しかし自分が妻の介護をすると考えている男性は、いったいどのくらいいるだろう。自分が介護をしてもらうという目算と同じくらい、妻を介護する可能性があることを、ころっと忘れているような気がする。よほど奥さんが年下でない限り、夫も妻の介護がまれでないことを認識するべきなのだ。

 私がこれまで周囲の男性を見て感じたのは、彼らの何十年後かを想像したとき、
 「この人は自分の面倒を見てもらうことは考えていても、妻の介護をする立場になる可能性があるとは、全く考えていない」
 ということだった。何の根拠か自分は介護される立場でしかないと考えている。誰が介護するしないという問題ではなく、女性に対する男性の気持のありようという意味である。女性にも打算的な人はたくさんいるが、男性は生活のなかで自分が負うべき問題を無視して、自分が積極的になれない部分からは目を背け、自分にとって都合のいい女を探しているような気がしていた。みんながみんなそううまくいくわけでもなく、思い通りにいかないときにどうするかという危機感に欠けているような気がした。

 最近は「濡れ落葉」で考えを変え、現役で働いている頃から趣味を持つ人も増えたし、妻の介護をしている男性もたくさんいる。一方で中高年の男性の自殺者が増えている。これからは社会との関係性が変化し、体調も変化する男性の更年期障害のケアが必要になってくる。

 多くの男性はもう仕事だけで気持ちがいっぱいいっぱいで、とてもじゃないけどそんな余裕はない。妙に意固地でまじめすぎる。明らかに神経が、昔の表現でいえば女性化していて、いつも頭の中がヒステリー状態になっているようにみえる。私が若い頃に職場でよく耳にした、
 「だから女はだめなんだ…」という、男性が嫌がっていた女性の鬱陶しさの状況が、ぴったりとあてはまるのである。」

-----
男の老年
posted by Fukutake at 11:49| 日記

死を看取る

「看取り先生の遺言」(2000人以上を看取った、ガン専門医(岡野健医師)の「往生伝」)
奥野修司 著 文春文庫 2016年

看取る家族の不安 p233〜

 「私(岡野医師)自身が在宅で患者さんを診てきて、在宅のまま最期を過ごせないケースの半分は介護福祉の問題であり、残りの半分は看取りを支えられないからである。

 看取りを支えられないのは、戦後、死が隠されてきたことにある。
 欧米の町には必ず教会があり、周辺に墓地があって、死と隣りあわせになっているのが基本的な町作りだが、日本の新しい町にはお寺も神社もなければ墓もない。死の香りを全部排除した町が作られてきたのである。これほど死を町と生活から排除した歴史は、世界史の中でも現在の日本だけではないだろうか。

 その上、病院死が八割という圧倒的な数を占めたことで、死を見た経験がない者が多数派となり、看取りの文化が壊れてしまった。人が死ぬ過程を見たことがない人間にとって、医者も看護師もいないところで、肉親が死んでいくところを見据えるのは、想像を絶するほど理解しがたいことなのだ。

 看取りの不安感について調査すると、緊急で往診してくれないから悪いんだとか、トンチンカンな答えが返ってくる。緊急往診の数を増やしても、家族の不安を解消できないだろう。人の死を見たことがないから、怖いのである。
 人が死ぬ過程を見たことがない家族には、亡くなるまでの過程を教えることで、ある程度の準備はできる。
 たとえば、最後まで家族の声は聞こえているから、声をかけてあげなさいとか、ご飯を食べられなくなったら、体が要求しなくなったのだから、そのままにしてあげなさいといったことである。水が飲めなくなる、おしっこが出なくなる、痩せてくる、喉を通らなくなる、意識が虚ろになる、死前喘鳴(ぜんめい)といって喉をごろごろ鳴らす等々は、決して病気ではなく、死に至る過程で避けられない現象なのだと説明することで、ある程度は安心して看取れるようになる。が、それだけで不安感が収まるわけではない。

 まだ意識が清明で、「なんで俺が死んでいかなきゃならないんだ」とか言っているときは患者さんのケアが大切であることはいうまでもない。が、肉体が衰えていき、「お迎え」が出る頃になると患者さんは楽になり、逆に看取る家族にケアの比重が移るのである。このとき家族の「見ているのがつらい、怖い」といった不安感を支えていくような場づくりがなければ、たとえ在宅がよくてもどこかで行き詰まってしまう。

 昔は死に逝く本人や家族の不安感を和らげるための儀式があった。たとえば、臨終に際して、枕元に阿弥陀来迎図を飾り、そこから引いた紐を死にゆく人に握らせ、枕元でお経を読んだのもそうである。こういう儀式があるから心が穏やかになるだけでなく、看取る家族はしっかり見送ってやろうという気持ちになれる。人間は、儀式によって死の不安から守られてきたのである。ところが、すべて合理的に解釈できると思ったとき、合理性のない儀式はきれいさっぱりなくなってしまった。
 人の死を見守ることができないのは、儀式が捨てられ、看取りの文化が崩壊したからである。看取りの文化を取り戻すには、ある程度の数を看取っていくしかないが、それが実現したとしてもずっと先のことであろう。」

----
昔は親族親戚一同が枕元に集まったものだ。
posted by Fukutake at 10:02| 日記

2022年01月24日

死はタブーか

「「お迎え」されて人は逝く ー終末期医療と看取りのいまー」 奥野滋子 ポプラ新書

死を忘れた日本人 p121〜

 「古典や宗教書の中に、それぞれの時代の人たちの生きがい、死への思い、彼らの生きざま、死にざまを垣間見ることができます。そして、それらの生死観は決して単に古い物語の中のものではなく、現代の生き方にも通じるところがたくさんあると感じます。
 蓮如上人の「御文章」(『浄土真宗聖典』四帖、三百御詠歌)には、「それ秋も去り春も去りて、年月を送ること、昨日も過ぎ今日も過ぐ。いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえずしらざりき」とあります。

 大方の人は、人生の終末を見つめることなく、いたずらに年月を重ねてしまっていますが、自分らしく生きて、自分らしく死にたいなら、今こそ死生学を学ぶべきだと思うのです。何を優先し、何を切り捨てるかは、最終的には自分で決めるしかないのですが、そこにやはり死生観が大切であると思います。

 「お迎え」現象を知ることによって、つねに先祖や仲間の見守りの中に自分の存在がある、自分は孤独ではないという感覚を持てたなら、死はまた別のものになるのではと考えています。

 2012年に大学院は修了しましたが、これからもそうした経験を通し。医療者がもっと死について積極的に話す機会を設けないと考えています。患者側も、本当は死のことについて話したがっているのではないでしょうか。
 驚くことですが、小児病棟でも死の会話はよく耳にしました。
 病室でわいわい騒いでいるので「今、何を話していたの?」と聞くと、たいていすぐに静まり返る。でも、あとで看護師から話を聞くと、
「一緒に遊んでいた3号室の〇〇ちゃん、死んじゃったみたい。お母さんがすごく泣いていたから」「死ぬってどうなるのかな?」「苦しいのかな」「僕もいつかは死んじゃうんだよね」「死んだら星になるってママが言ってた」「星かぁ。そんなに遠くに行っちゃったらもう会えないね」「私が死んじゃったらパパかママがかわいそう」
 そのような会話を、子どもたちはいていたようです。

 私たち大人には、そしてとりわけ医療者の前では死の話をしてはいけないと子どもながらに思っているのかもしれません。病院では死はタブーだということを、子どもたちは大人たちのそぶりを見ながら感づいていたのです。そんな子どもたちと本音で寄り添える大人がいれば、こころのケアにつながるのではないでしょうか。」

-----
死を知る

posted by Fukutake at 08:49| 日記