2022年01月31日

まともな大人

「100分で名著 特別授業 養老孟司 ー夏目漱石ー 読書の学校」 NHK出版 2018年

大人になる p112〜

 「私がいまの教育に抜けていると思うのは、『坊ちゃん』や漱石自身のテーマでもある、「大人になる」ということです。
 日本の教育は、試験で高い点数を取ることばかり執着して、人が成熟するためにはどうすればいいのかを教えてこなかった。
 何かを効率的にこなすことが上手になっても、それが必ずしも人が育ったことにはなりません。
 例えば、鉛筆削り一つをとっても、鉛筆をいちいち小刀で切り出して削ったら効率が悪い。鉛筆削りの機械に突っ込んでガーっと削れば、その分勉強できる。シャープペンシルならカチカチやればいい。でも、身体技能としては小刀一つ使えなくなってしまった。つまり、鉛筆削りを機械で済ませて、空いた時間を勉強に使えばいいだけのことかといえば、そうではない。身体性を失ってしまうのは、想像以上に大きなことです。
 効率化とは機能主義で、はっきり目的を定め、それに合わせていちばん合理的な方法をとることです。それは、ある欠点も包括している。人間として大事なものを落っことしてしまう危険性があるのです。
 大学にいた時、私も入試試験を作成することがありました。そこには常に疑問があった。合否のラインが五一三点だとすると、五一二点の人は不合格です。その一点の差は何なのか。それはただ、定員をオーバーしないための区切りです。
 本当は入試試験にも答えの出ない問題を出したいけれど、そんなことをしたら、「正解は何んだ。これでは点数がつけられない」と袋叩きにあいます。「答えのないのが問題だ」と私はいつも言っていますが、残念ながら、それが通る世界ではありません。
 ただ一つの目的だけを効率よく達成することが大人になることではありません。無目的に山を歩き、ふと気がつくこと。虫を探すという目的がありつつも、違う目的が思わぬことで達成されることもある。自然の中には全く予期せぬ出会いもある。寄り道や回り道をすることで、人間は思いがけず成熟していくのです。
 最近の人は、安全範囲内で物事を済まそうとする人が増えてきた。そうすると面白いことは起こりません。私は、「これをやろうと思うんですけど、どう思いますか」と聞かれると、「やってみなきゃわからない」と応えます。すると「無責任だ」と言われる。それなら人の忠告など求めず、自分で決めたらいいのです。ダメでもともと、試してみてダメなら仕方がない。そういうことを若いうちにたくさんやっておくことをお勧めします。
 私、ラオスによく行くんです。そう言うと必ず「何しに行くんですか」と聞かれます。「虫捕りに行くんだよ」と言うと、「へえ、何が捕れるんですか」とくる。そんなもの、何が捕れるかがわかっていたら行きません。わからないから面白い。あらかじめ何が捕れるかわかっていて、それが欲しいだけなら、現地の人にお金を払って「あれ捕って来てよ」と言えば済むことです。」

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不確実に耐えて、生きていく不合理さにこそ、人生がある。
posted by Fukutake at 08:24| 日記

2022年01月30日

残された人生の時間

「死すべき定め」ー死にゆく人に何ができるかー アトゥール・ガワンデ
原井宏明訳 みすず書房 2016年 

残された時間と苦痛の選択 p238〜

 「最期の時、人は自分の人生を単なる瞬間・瞬間の平均と見ることはしないー いろいろ言ってみても結局のところ、ほとんどの人生にはたいしたことは起こらず、ただ眠気を誘うだけのものだ。人間にとって人生が意味を持ちうるのは、それが一つのストーリーだからである。ストーリーには一貫性があり、何かの出来事が生じた重要な瞬間がその山場を形作る。瞬間・瞬間に快楽と苦痛の点数の平均を測定してしまうと、人の存在の根本的な一面を見逃すことになる。一見、幸せに見える生活というものは、実は空っぽの人生なのかもしれない。一見、困難に満ちた人生というのは大義に殉じた人生なのかもしれない。人は己自身よりも大きな目的を持つようにできている。経験する自己ー瞬間・瞬間に吸い取られていく自己ーとは違って、記憶する自己は、喜びの頂きと悲惨さの谷底だけでなく、人生のストーリーが全体としてどのようになっているかも認識しようとする。全体は最終結果から深い影響を受ける。なぜ、フットボールのファンは試合の最後のたった二、三分間のミスのために三時間にも及ぶ至福の時をぶち壊されたような気分になるのだろうか。それは、フットボールの試合もまた一つのストーリーだからだ。そしてストーリーでは結末が重要だ。

 しかし、経験する自己も無視すべきでないことはわかっている。頂点と最後だけが重要なのではない。安定した幸福よりも強烈な歓びの瞬間を選り好みするという点を考えると、記憶する自己は賢明とは言い難い。
「私たちの脳はそれほど整合的なデザインにはなっていない」とカーネマン*は述べる。「私たちは、苦痛にしろ快楽にしろ、その持続時間についてはちゃんと好き嫌いがある。つまり、苦痛は短いほどよいし、快楽は長いほどよい。だが… 私たちの記憶は、苦痛または快楽がもっとも強い瞬間(ピーク時)と終了時の感覚とで経験を代表させるように進化してきた。また、持続時間を無視するため、快楽を長く、苦痛を短くしたいという好みを満足させることはできない」

 時間が限られていて、どうすれば本当に大切なことができるかわからないとき、私たちは経験する自己と記憶する自己のどちらも大事だという事実に向き合わなければならなくなる。長時間の苦痛と短い快楽は欲しくない。しかし、ある種の快楽は苦痛を耐える甲斐のあるものにしてくれる。ピークは大事だが、結末もまたそうである。

 ジュウェル・ダグラスは手術が起こすかもしれない苦痛に耐える自信がなかったし、悪化するまま放っておかれることも恐ろしかった。「リスクのある賭けはしたくない」と彼女は言った。そしてその言葉は、後から私も気づいたのだが、彼女の人生のストーリーがひっくりかえってしまうようなリスクの高いギャンブルはしたくない、という意味だったのだ。その一方で、彼女にはまだしたいことがたくさんあった。見た目にはありきたりのことばかりである。もし、彼女がしたいことを腫瘍が邪魔しなくなり、彼女にとって大切な人たちと後もう少し楽しい経験をできたならば、彼女は多大な苦痛でも進んで耐えるだろう。一方で、腸が絡んで詰まり、水道の水漏れのような腹水で腹が膨らむことで十分苦しんでいるのに、さらに苦痛を増す可能性があることはしたくなかった。」

ダニエル・カーネマン* 選択の結果得られる利益もしくは被る損害および、それら確率が既知の状況下において、人がどのような選択をするかという理論を研究した。「ファスト アンド スロー」の著者

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(原文)
 「In the end, people don't view their life as merely the average of all of its moments- which, after all, is mostly nothing much plus some sleep. For human beings, life is meaningful because it is a story. A story has a sense of a whole, and its arc is determined by the significant moments, the ones where something happens. Measurements of people's minute-by-minute levels of pleasure and pains miss this fundamental aspect of human existence. A seemingly happy life may be empty. A seemingly difficult life may be devoted to a great cause. We have purposes larger than ourselves. Unlike your experiencing self - which is absorbed in the moment- your remembering self is attempting to recognize not only the peaks of joy and valleys of misery but also how the story works out as a whole. That is profoundly affected by how things ultimately turn out. Why would a football fan let a few flubbed minutes at the end of the game ruin three hours of bliss? Because a football game is a story. And in stories, endings matter.

Yet we also recognized that the experiencing self should not be ignored. The peak and the ending are not the only things that count. In favoring the moment of intense joy over steady happiness, the remembering self is hardly always wise.
"An inconsistency is built into the design of our minds,"Kahneman observes. "We have strong preferences about the duration of our experience of pain and pleasure. We want pain to be brief and pleasure to last. But our memory ... has evolved to represent the most intense moment of an episode of pain or pleasure(the peak) and the feelings when the episode was at its end. A memory that neglects duration will not serve our preference for long pleasure and short pains."

When our time is limited and we are uncertain about how best to serve our priorities, we are forced to deal with the fact that both the experiencing self and the remembering self matter. We do not want to endure long pain and short pleasure. Yet certain pleasure can make enduring suffering worthwhile. The peaks are important, and so is the ending.

Jewel Douglass didn't know if she was willing to face the suffering that surgery might inflict on her and feared being left worse off. "I don't want to take risky chances," she said, and by that, I realized, she meant that she didn't want to take a high-stakes gamble on how her story would turn out. On the one hand, there was so much she still hoped for, however seemingly mundane. That very week, she'd gone to church, driven to the store, made family dinner, watched a television show with Arthur, had her grandson come to her for advice, and made wedding plans with dear friends. If she could be allowed to have even a little of that - if she could be freed from what her tumor was doing to her to enjoy just a few more such experiences with the people she loved - she would be willing to endure a lot. On the other hand, she already faced with her intestines cinched shut and fluid her abdomen like a dripping faucet.」

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posted by Fukutake at 08:25| 日記

2022年01月29日

江戸の裁判

「増補 幕末百話」 篠田鉱造著 岩波文庫 1996年

南北の町奉行 p97

 「昔は今の裁判所が南北両奉行でありまして、南は数寄屋橋内、北は呉服橋内でした。この外に寺社奉行、御勘定奉行がありましが、奉行になりますと、取高三千石と極まって奉行の下には公用人、目安方などあり、また奉行所には吟味与力、同心というのがあって、刑の支配をしたものであります。普通民刑共に取扱い、当今のように別々ではない。遠島死刑の如き重罪になりますと、「お伺い」と申し御老中の指図を受けるのであります。御老中は奥御祐筆に充分取調べさせ、サテ死罪流罪に該当するや否や定まろうというのであるから、決して今人が想像するように無闇に人々を死罪流罪にさせるものではない。のみならず当今のように死刑になるか、無罪になるかなんぞの突飛な裁判もありません。死刑が流罪になるくらいである。

右重罪の外は「手限(てぎり)」と申して、奉行の手下に処罰をするのであります。で吟味役の内にも調べ役と擬律者は骨を折れれば、宣告をするにも、先ず律に照らし、お触れを取調べ、そして判例を要します。就中(なかにも)重罪となると、「お伺い」をするから御老中の方より何か申し来たるとも、申し開きの立つようにして置かねばならぬ。ソレでないと再調べなどされると、吟味方の落度になります。この例は『類集』という書物になって居りましたが、コレは慥か司法省へ引き渡したから、同省には今なお存在して居りましょう。

 奉行は朝十時御城のお太鼓の鳴る頃一旦お城へ出て、ソレから奉行所へ退がり、その日に持出した訴訟はその日に聞いてしまいますから、退出時間は極まっていませぬ。今の裁判所より骨は折れます。今の原告はその頃「訴人」と言った。被告はというに「相手方」といったもので、スベて口供(こうきょう)を取る。これによって裁きをつけますが、吟味役が下手ですと、擬律の役人は真にやり憎い。時にツキ返すこともある。これは吟味役の落度である。また事件が大名のお家騒動とか、桜田の椿事といった安排式の時には、「五手」といって大目付、寺社奉行、御勘定奉行、町奉行、お目付の五人が顔を合わせて評定をするのであります。

 あの頃は浪人者が多く諸家で取押えて迎えに来るが、往って見るてえと、長いのを一本差した大の男を多勢に任して取巻いているので、「サアお引き取りください」という訳で、暴れ出された日には大変だと思った事がある。その頃吟味した浪人者の内に、当時では堂々たる貴族院議員何の某(なにがし)なんぞという人物があるんです。その頃の何次郎何太郎の、次郎、太郎の二字を取除けて、一字名の連中があの際には遊郭で暴れたり、町人泣かせをして捕まって来たものでありましたが、時々姓名を見て思付く事があります。イヤ変われば変わるものだ。」

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狼藉浪人が貴族院議員!







posted by Fukutake at 09:32| 日記