「ベトナム帰還兵の証言」 陸井三郎訳 岩波新書 1973年
残虐 p81〜
「私はミシガン州アナーバー出身です。私は六六年一〇月から六七年九月まで勤務しました。…
われわれが出動し、立ち寄った村の少なくとも五〇パーセントは焼き討ちされ、灰燼にされたといっていいでしょう。焼き討ちした村と、焼き討ちしなかった村との間にはなんら区別はありませんでした。時間がありさえすれば。焼き討ちをかけたのです。
私はある二等曹長が四五口径で仔豚を六頭殺すのを見ました。仔豚はおそらくアメリカがくれたものです。アメリカはベトナム人に豚やアヒルなどを与える一大計画をもっていましたから。豚が射殺されたのは、豚のいるあたり、飼育されている場所が、燃えている村や家屋のすぐそばにあったからです。全村は約四分の一マイルにわたってますが、照明榴弾かジッポ・ライターで火をつけられ、火炎につつまれました。あらゆるものが焼きつくされました。ものというものがことごとくとりこわされました。動物は残らず殺しました。水牛は射殺し、いましがたまでいた場所にただそのままにしておきました。水牛を殺すのは容易なわざではないのですが、泥のなかに立っているときには、どうもがいてもほとんどしようがないわけです。形のあるものはみな焼いてしまいました。
ある一時期、われわれは四月と五月に、アリゾナ作戦で移動していました。日没の約一時間前に、上官の中尉から、私の所属する第一分隊に命令がきて、村が近接しすぎているから焼き討ちに出動せよとのことでした。われわれはここで時間をとりすぎていました。そこで、私をふくむ私の分隊が出動し、村にジッポ・ライターで火を放ちました。村を焼いたのです。村人はまだ家のなかにいました。彼らは外にでてきて、ただそこに立ちつくし、声をたてて泣きつづけました。そうするうちに彼らは、ふらふらとどこかへ行ってしまいました。村人がどうなったかはわかりません。
形あるものはみな焼かれるか、破壊されるのを免れませんでした。われわれは丘の斜面にさしかかると移動を停止し、丘にかけのぼり、ちょっとちょっと頂上を点検するのですが、これは海兵軍団がかならずふむ手続きのようです。われわれが進行を停止するたびに、だれかがナタかなにかの刃物をとりだし、バナナの木を切るのです。住民はいもを薄切りにし、家の前に干しています。この辺りにはあちこちにそういうものがあるのです。それをただ蹴とばし、めちゃくちゃにするのです。兵隊たちは日光で乾燥しているこの種の植物に小便をひっかけます。村人が不満をいおうものなら、きまって残忍な仕打ちにあいます。それがいつものやり口でした。
私がこの席にきた理由は、二年半にわたってこういうことをやって生きてきたからです。私の部隊には憎悪の雰囲気がありました。つまり、ベトナム人はー 私の部隊にとっては友好的なベトナム人などというものはまったくいませんでした。すべてのベトナム人がグークなのです。私はベトナム人という言葉をほとんど耳にしたことがありません。彼らはつねにグークなのです。善玉と悪玉の違いはまったくなく、ただ善玉がそのときは武器をもっていないというだけで、それでもこの善玉もかっこうの遊び道具になるのです。村人はわれわれのいいなりに振舞わなければ、自分の家にいることも許されず、あるいは家のなかで打ちのめされるからです。」
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これが戦争。
法隆寺
「木に学べ」ー法隆寺・薬師寺の美ー 西岡常一 小学館
法隆寺の木 p104〜
「法隆寺のそれぞれの建造物の屋根は反(そ)ってますな。
この軒でもそうですな。こういう反り、この時代のものを”しん反り”といって、真ん中が一番低くて、大きな円の形にそって、隅でちょっと、その反りがきつくできています。反りの形が大きなだ円になってますな。これは美しさを追ったせいでもありますが、技術的にもそうならざるを得なかったんです。その後の時代は、だ円よりも”なぎなた反り”という、途中から真っすぐで、隅だけが急にぎゆうっとあがるんです。直線と円の組合せになるわけです。比べてみるとわかりますが、法隆寺の反りは真ん中がずうっとさがっているんです。飛鳥、白鳳、天平ぐらいまでは、だ円でした。この反りは、大陸から習ったもので、日本の在来建築には反りはありませんでした。伊勢神宮に代表されるように直線ばかりです。
この反りというのは、鳥の羽の反りをまねたと、そういうふうにいわれています。中国の天帝思想というのは、天に近づくこと、国を治める物は天に近づき、なるだけ高い楼閣に住もうとしたんですな。屋根の反りは鳥の羽を模して、天に飛んでいけるようにという願いがこめられていたんです。こういう思想があって、反りが生まれてきたんですな。
構造的には無理があるんです。けれども形の上では、反りがないと、どうにもこうにも、隅の方の荷重がうんと重たいんですわ。それで、なんとかして、押しあげようということで、反りを必要としたんです。反りは隅をつくる上で構造的な理由もあるんですな。木を組んで、瓦をふきますと、真ん中がさがるんです。これは、学問的に数学やなんかでは、割り出せないんでっせ。木の弱さ強さによって、そのさがり方が違いますからな。形だけではどうしようもないんです。この木は強いと思うやつは、二寸あげておくやつを一寸五分にするという具合に加減せなならん。これは難しいですな。
そういう点を、法隆寺は木の性質をよく見抜いて組んであります。今の建築ではこうはいきません。木のくせを読む、木の育った方位に使うということはしませんからな。
法隆寺を見てまわられる人は、こうした、形に出ないところも知って見てもらったらうれしいですな。
木を活かし、建物を活かすには、よい地相があると昔からいわれているんです。これが第一の条件です。口伝には四神相応の地に建てよといっています。
東に青竜、西に白虎、南が朱雀(しゅじゃく)、北が玄武の地ということですが、具体的には地形にあてはめますと、伽藍の東には清流がなければならない。北は山でなければならないということです。
もし、どうしてもそのような伽藍の地が得られんときには、南に桐の木を植えよ。東には柳を植え、北には楡を植えよ。西には梅を植えよというんですな。魔除けの意味をもった道教的なもんでしょうな。建物の反りにあらわれた鳥の羽の思想も同じようなところから考えられたんでしょう。
法隆寺は、この四神相応の考えにまったくそのとおりにできてますわ。」
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法隆寺の木 p104〜
「法隆寺のそれぞれの建造物の屋根は反(そ)ってますな。
この軒でもそうですな。こういう反り、この時代のものを”しん反り”といって、真ん中が一番低くて、大きな円の形にそって、隅でちょっと、その反りがきつくできています。反りの形が大きなだ円になってますな。これは美しさを追ったせいでもありますが、技術的にもそうならざるを得なかったんです。その後の時代は、だ円よりも”なぎなた反り”という、途中から真っすぐで、隅だけが急にぎゆうっとあがるんです。直線と円の組合せになるわけです。比べてみるとわかりますが、法隆寺の反りは真ん中がずうっとさがっているんです。飛鳥、白鳳、天平ぐらいまでは、だ円でした。この反りは、大陸から習ったもので、日本の在来建築には反りはありませんでした。伊勢神宮に代表されるように直線ばかりです。
この反りというのは、鳥の羽の反りをまねたと、そういうふうにいわれています。中国の天帝思想というのは、天に近づくこと、国を治める物は天に近づき、なるだけ高い楼閣に住もうとしたんですな。屋根の反りは鳥の羽を模して、天に飛んでいけるようにという願いがこめられていたんです。こういう思想があって、反りが生まれてきたんですな。
構造的には無理があるんです。けれども形の上では、反りがないと、どうにもこうにも、隅の方の荷重がうんと重たいんですわ。それで、なんとかして、押しあげようということで、反りを必要としたんです。反りは隅をつくる上で構造的な理由もあるんですな。木を組んで、瓦をふきますと、真ん中がさがるんです。これは、学問的に数学やなんかでは、割り出せないんでっせ。木の弱さ強さによって、そのさがり方が違いますからな。形だけではどうしようもないんです。この木は強いと思うやつは、二寸あげておくやつを一寸五分にするという具合に加減せなならん。これは難しいですな。
そういう点を、法隆寺は木の性質をよく見抜いて組んであります。今の建築ではこうはいきません。木のくせを読む、木の育った方位に使うということはしませんからな。
法隆寺を見てまわられる人は、こうした、形に出ないところも知って見てもらったらうれしいですな。
木を活かし、建物を活かすには、よい地相があると昔からいわれているんです。これが第一の条件です。口伝には四神相応の地に建てよといっています。
東に青竜、西に白虎、南が朱雀(しゅじゃく)、北が玄武の地ということですが、具体的には地形にあてはめますと、伽藍の東には清流がなければならない。北は山でなければならないということです。
もし、どうしてもそのような伽藍の地が得られんときには、南に桐の木を植えよ。東には柳を植え、北には楡を植えよ。西には梅を植えよというんですな。魔除けの意味をもった道教的なもんでしょうな。建物の反りにあらわれた鳥の羽の思想も同じようなところから考えられたんでしょう。
法隆寺は、この四神相応の考えにまったくそのとおりにできてますわ。」
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posted by Fukutake at 08:35| 日記