2021年12月23日

陽明学

「伝習録 −「陽明学」の真髄−」 吉田公平 タチバナ教養文庫 平成七年

王陽明の慧眼 
P220〜
 「朱本思がおたずねした、「人間には自在にはたらく霊明があるからこそ良知があるのでしょうが、それのない草木瓦石の類にも良知はあるのでしょうか」と。
 先生がいわれた、「人間の良知がとりもなおさず草木瓦石の良知なのである。もし、草木瓦石は、そのように価値づける人間の良知がなかったら、草木瓦石となることはできない。単に草木瓦石だけがそうなのではない。天地は、そのように価値づける人間の良知がなかったら、やはり天地となることはできない。いったい、天地万物は人間ともともと一体のものなのだ。最も精密にはたらくのが人間の霊明にはたらく心なのである。風雨露雷・日月星辰・禽獣草木・山川土石の類は、人間ともともと一体なのだ。だからこそ五穀や禽獣の類は、みな人間を養うことができるし、薬石の類はみな病気を治すことができるのである。それはひとえに一気を同じくしているからこそちゃんと通じあえているのだよ」と。」

p227〜
 「またいわれた、「目には、みられるものの色が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆる客体がもつ色をその実体としてみるのである。耳には、きかれる音の声が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆる客体がもつ声をその実体としてきくのである。鼻には、かがれるものの臭が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆるものがもつ臭をその実体としてかぐのである。口には、食べられるものの味が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆるものがもつ味をその実体として味わうのである。心には、主客の感応関係の是非がそなわっているわけではなく、この世界のあらゆるものが示す感応関係の是非を、その実体として判断するのである」と」

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「ひらたくいえば、たとえば視る前に赤なら赤ときめてかかってみるのではなく、そのような先入見からまったく自由になって(このことをここでは「体無し」といっている)率直平心に対象を観察すること。」(吉田注)

posted by Fukutake at 14:35| 日記

郷愁の俳句

「与謝蕪村 郷愁の詩人」 萩原朔太郎著 岩波文庫
夏の部 p63〜

 「    草の雨 祭の車すぎてのち

京都の夏祭、即ち祇園会である。夏の白昼の街路を、祭の鉾や車が過ぎた後で、一雨さっと降って来たのである。夏祭の日には、家々の軒に、あやめや、菖蒲や、百合などの草花を挿して置くので、それが雨に濡れて茂り、町中が忽ち青々たる草原のようになってしまう。古都の床しい風流であり、ここにも蕪村の平安朝懐古趣味が、ほのかに郷愁の影を曳いてる。

     夕立や 草葉を掴む群雀

 急な夕立に打たれて、翼を濡らした雀たちが、飛ぼうとして飛び得ず、麦の穂や草の歯を掴んでまごついているのである。一時に襲って来た夕立の烈しい勢が、雀の動作によってよく描かれている。純粋に写生的の絵画句であって、ポエジイとしての余韻や含蓄には欠けてるけれども、自然に対して鋭い観照の目を持っていた蕪村は、画家としての蕪村の本領が、こうした俳句において表現されてる。

     紙燭して 廊下通るや五月雨

 降り続く梅雨季節。空気は陰湿にカビ臭く、室内は昼でも薄暗くたそがれている。そのため紙燭を持って、昼間廊下を通ったというのである。日本の夏に特有な、梅雨時の暗い天気と、畳の上にカビが生えるようなじめじめした湿気と、そうした季節に、そうした薄暗い家の中で、陰影深く生活している人間の心境とが、句の表象する言葉の外周に書きこまれている。僕らの日本人は、こうした句から直ちに日本の家を聯想し、中廊下の薄暗い冷たさや、梅雨に湿った紙の障子や、便所の青くさい臭いや、一体に梅雨時のカビ臭く、内部の暗く陰影にみちた家をイメージすることから、必然にまたそうした家の中の生活を聯想し、自然と人生の聯結する或るポイントに、特殊な意味深い詩趣を感ずるのである。」

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「花茨故郷の道に似たる哉」いいなあ。
posted by Fukutake at 14:33| 日記