2021年12月20日

七支刀の謎

「宮崎市定全集 21 日本古代」 より

七支刀の年代 P189〜

 「奈良県天理市の石上神宮に、古来神宝として伝えられた国宝、七支刀がある。近頃埼玉県の稲荷山の鉄刀の銘文が問題にされてから、それにつれて七支刀の銘文も改めて重要性が見直されることになり、度々新聞紙上にも話題を提供しているので、私もついそれにつられて、銘文解読の跡を辿って見たところ、どうもこれまでの解釈は、本道を外れて、あらぬ小径に迷いこんでいるような気がしてならない。

 この七支刀には表裏に金象嵌で合計六十一文字の銘文があった筈だが、千年有余年もの長い間、全く手をつけずに放置されてきたため、鉄錆が全面に浮び上り、文字がほとんど読めなくなっていた。最初にこれを読解しようと努めたのは明治七年頃の神宮宮司、菅政友(かんまさとも)である。彼は恐らく鑢を用いて、表面の鉄錆を落とし、苦心して銘文を読み取ろうとしたが、その最大の関心事は、当然のことながら、何よりもこの刀の製作年代を知るにあった。幸いに他の多くの銘文と同じく、この刀も銘文の最初に年号と月日と干支が彫ってあることが分った。彼はこれを、
 泰始四年□月十□日丙午
と読み取った。但し第二字は腐食が甚だしくて字形が殆ど失われ、僅かに左偏にイ(にんべん)に似たる鍵形、右旁の下辺に四角の口形を認め得るに止まった。そこからして彼は敢えてこれを始と読んだのである。

 注意すべきことは、彼は何等成心があって第二字を始と読んだのではないことである。彼はこの下文に七支刀という文字をも既に認めている。水戸系の国学者である彼は、『日本書紀』の神功皇后紀(二五二年)に七支刀の記事があることを知らぬ筈はない。併し彼は当初においては、この両者を関係づけ、七支刀の製作年を神功紀の年代に近付けようなどという意図は持たなかった。彼が両者を併せ論ずるようになったのは、星野恒博士の論文が出てから後のことであったと思われる。
 菅政友は全く自由な立場から、最初の二字を泰始と読んだのであって、彼の関心事はむしろ何れのの泰始を取るべきかの決定にあった。何となれば泰始は中国の年号であるが、西晋武帝の時の泰始と、南朝宋の明帝の時の泰始と二回あったからである。そこで彼は下文の□月十□日丙午とあるのに着目し、歴史年代の長歴を検べて、月日と干支とを対照して見た。その結果分ったことは、南朝宋の泰始四(四六八)年には一月から十月まで、各月の十一日から十九日までの間に、丙午にあたる日は一日もないことであった。そこまでこの南朝宋の泰始四年は欠格ということになる。然るに西晋の武帝の泰始四(四六八)年には、六月十一日、八月十二日、九月十三日が何れも丙午にあたるので、この三つの場合の中の一つ、恐らくは六月十一日であるに相違ないと考えた。結局銘文は、
    泰始四年六月十一日丙午

と読まるべきと結論されたのである。

とは言え、其後次々に新しい事実、新しい見解が出てきて、着実に研究の前進が行われてきた。その第一は、不明の月日の文字が、五月十六日であることが略々(ほぼ)決定的に判明した。次にこの日付は実際に製作の行われた月日の記録というよりも、むしろ製作に適すると信ぜられた架空の日付、言いかえれば吉祥的な意味をもった数字である場合が多いことが分かり、最後にこの日付は必ずしも丙午の干支とは相応せず、丙午とは単に火気、熱気の旺な時を意味する吉祥語であり、当該日付の実際とは無関係に使用される慣習があったことが明らかになったのである。…

 南朝宋の明帝の泰始四(四六八)年は、年表によれば我が雄略天皇の十二年に当り、日本、中国、朝鮮との間に緊密な外交関係が成立した時代である。近頃同様な金象嵌の長文の銘文のある稲荷山古墳出土の鉄刀も、また古くから銀象嵌の長い銘文で知られる熊本県江田船山古墳出土の鉄刀もほぼ雄略時代の製造と考えられるので、ここに七支刀の製作と認めると、三本の鉄刀銘文の存在が、この時代の好尚を現わすものと言うことが出来る。
 これによって五世紀後半における東アジア地域に進行しつつあったもろもろの政治上、文化上の諸問題が一気に解決に向うであろうことを私は期待するものである。

(この小稿は、一九八〇年十一月三日、京大会館での東洋史研究会大会の席上で発表した談話の梗概である。)」

(『洛味』第三四五集、一九八一年六月。原題「七支刀」)

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七支刀の謎の解明
posted by Fukutake at 08:16| 日記

桜田門外事件の裁判

「旧事諮問録」 江戸幕府役人の証言(上) 旧事諮問会編 岩波文庫

司法の事(評定所) 明治二十四年三月二十一日 答問者(旧幕 評定所留役御目付、奈良奉行 小俣景徳 

「桜田騒動」p122〜

 「問 桜田騒動は如何でありましたか。ずいぶんむつかしゅうございましたか。
答 さよう、なかなかむつかしいので、最初、松平伯耆守(寺社奉行)が吟味をした時は、はね返してなかなかいけませぬ。池田播磨守(町奉行)は、なかなか公事は上手と聞きました。
問 いかなる事を言いましたか。
答 ただ攘夷鎖港の事で、幕府の処置がよろしくないということを第一にして、掃部頭(井伊直弼、大老)に私曲のあったことを申したので、ほかの私曲でもありませぬが、その時分に金の格がたいそう違って来た。それは、掃部頭が大丈夫触れが出るということを知って、買って歩いて儲けた事があるという事が、願書の中に書いてあるのです。
問 それは実事であった事ですか。
答 あったようでございます。第一、掃部頭が条約を差し許したのは、誠に日本へ対してこの上もない罪人というので殺したのだけれど、内実は慶喜を入れる入れないという所もあったかもしれませぬ。
問 今の、金をどうとかして利益を取ったという事は、どうでありますか。事実であった事ですか。今でも大蔵大臣がどうとかするとか、あるいは米をどうするとかいう事がありますが。
答 米はなかったようです。あれが一の科でありますが、先ずはそこはお請合いはできません。そうすると、上を吟味しなければなりませぬ。それは枝葉で、何でも攘夷の事で仮条約を結んで、交易を許したというのが一番になっているのであります。
問 それで、十七人をいかなるふうに吟味がありましたか。一人ずつでありますか。
答 一人一人であります。たとえ陳ずる所が理に当っておろうとも、幕府の大老を殺害するという心得は大罪なり、その節、届の旨は、疵を受けたので、その通り聞届けたゆえ、幕府が酷く悪し言われて、既に掃部頭は戦争をするつもりであったので、水戸の方でも仕方がないから、一番受けようとというのであります。そこで、掃部頭の方では傷を付けられたというだけの事で、首を取られた事は言わぬのであります。
問 水戸浪士の方では、吟味の時に、私は一向関係はないというような事はありませんでしたか。
答 それは立派に自白している。
問 殺したという事も言っているのでありますか。
答 称えているのであります。掃部頭の方では首を取られたということは、少しも言わぬのであります。
問 その吟味は、どういうふうに吟味しましたか。首を取ったというのではない方の吟味をしましたか。
答 「重き役人を傷を付けて、いかにも不埒ではないか」というと、しまいには、「恐れ入ります」という事になって、そこで拇印を取って切腹でございます。なかなか最初の勢いは烈しいのであります、それが三度五度となると、だんだん柔らかくなって来たのであります。そうして恐れ入ったという所まで
いって拇印を捺したので、みな死を決しておりました。」

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覚悟の挙行。

posted by Fukutake at 08:11| 日記