「孫子」 天野鎮雄(訳・注) 講談社文庫
行軍編 五 p168〜
「(通釈)敵の軍使は言葉はへりくだっているが、守備をいよいよ充実させるのは、わが軍に進撃するのである。これに反し、敵の軍使の言葉は強気で、まさに馳せて来るわが軍を攻撃する勢いを示すのは、敵が退却するのである。敵がその戦車を先頭に立て、陣の両側に位置するのは、われと戦わんとするのである。敵の軍使が、媾和の誓いをするほどの実質的なものがなくて、ただ媾和だけを請うのは、敵がなにかをたくらんでいるのである。敵兵が忙しく右往左往して、戦車を配置につかせているのは、日時を決めてわが軍に攻めんとするのである。敵部隊の進退が、中途半端であるのは、わが部隊の攻撃を誘うものである。敵陣内において、兵器や杖にして体を支えているのは、敵の食糧が欠乏しているのである。敵の兵が水を汲むやいなや、すぐにこれを飲むのは、敵陣に水が欠乏しているのである。敵の兵が有利なものを見ても、それを得ようとして進んで来ないのは、敵が疲労しているのである。鳥が敵陣内に集まっているのは、既にそこに敵兵がいないのである。夜、敵陣内で声高く叫んでいるのは、兵数の少ないのを恐れているのである。敵軍が乱れて騒がしいのは、敵の将軍に威厳がないのである。敵陣の旗が、時でもないのに動揺しているのは、敵軍の秩序が乱れているのである。敵の部将が、みだりに兵を怒声を上げているのは、敵兵が戦闘にうんでいるのである。敵兵がその馬に人の食糧を与え、兵には牛馬を殺して肉食し、酒もりして宿舎に帰らないのは、もはや進退きわまった軍である。敵の部将がねんごろにまた気にいるように、兵と話をしているのは、多くの兵の心を既に失っているのである。敵将がしばしば兵に賞を与えるのは、敵軍が行き詰っているのである。敵将が初めは手荒く兵を使役し、後になってその兵をおそれているのは、兵の取扱いを知らないのである。敵の軍使がわざわざわが陣に来て、おだやかにわびを言うのは、敵が休息を欲しているのである。敵兵が怒って、進撃するわが兵を迎えようと、途中まで出撃するが、時がたっても戦うこともせず、また退くこともしない時は、必ずよく注意して、それを観察しなければならない。」
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敵軍をよく観察すること。
明治の風情
「明治百話」(上) 篠田鉱造著 岩波文庫 1996年
芝居茶屋 p48〜
「芝居の初日の賑わい、これは今の方々に、御覧に入れたかった。江戸時代の面影が崩れないで、芝居茶屋が一列一帯に、花のれんをかけ、高さ三尺の「明日行灯(あすあんどう)」が出る、吊看板が出る、鳥居の絵看板を、見物の群れで黒山。芝居の前は人波ですから、茶めし餡かけの屋体が出る賑い、縁日以上であって、木戸芸者(男)が役者の声色をつかう。黒縮緬の衣装に、緋縮緬の襦袢、今のマネキンはこれで、役者の仮声(こわいろ)で客を招きます。初日はというと、一日がかりで二幕ぐらいしか観られない。灯がついてから一幕、夜一幕、といって怒りもしない客は温和(おとな)しかったもので、… もっとも初日はロハでした。芝居が始ってから、芝居町は活気づき、何ともいえない、花やかな浮立った心持ちになるんですが、あれでなくっちゃァ、米の値を忘れ、銭勘定を忘れ、ただモー芝居に、身も魂も打込んでしもうといった見物、アスコまで誘い入れないと、芝居は繁昌しないと思います。
芝居が刎ねると芝居茶屋の二階が賑かとなり、提灯が輝いている。その間はお客は芝居茶屋の二階で御膳が出て一杯傾け、御飯を喫(ぱ)くついてお帰りとなる。一座によっては芸妓を呼ぶ、役者を招く、とても遊興気分がたんまりただよって気保養となりのんびりとした心にもなったものです。芝居茶屋でも、大茶屋の豊泉、中菊などとなると、料理番が抱えてあって、料理茶屋跣足(はだし)でした。女連はことにこの芝居情調に、心も有頂天ですから、芝居茶屋で、幕合のお化粧、贅沢な向は、幾度もお着替えなんです。深川木場あたりの、大家の寮から船で山谷へ漕がせて、芝居茶屋へ陣取る。三日も前から一睡もしない。芝居を観ない内から、眼が脹れぼったいなんかという騒ぎ。アノまた芝居茶屋から替草履で、劇場内へ若衆に案内されるというのがいい心持ちでした。一勇斎国芳の絵に、梅屋の賛が、
幕開きのしらせにいそぐ替草履 こみ合ふ客につつかけの客
福草履みたいな、鼻緒の太いのを、替草履といいますが、アレを突懸けて、人を掻き分け、若衆の跡から場へ行く心持ちは、今じゃア トモテ味われません。
ソコで芝居茶屋から帰りが、イザお立で、茶屋の若衆がソノ茶屋の提灯で、前申した「薮」のところまで、送って来るのが、お定法となっています。よい心持と酔って、春の夜の月影を踏み送られる味ったら現今(いまごろ)較べるものがありません。コノ「薮」まで若衆が送るということを知らない人が多いでしょう。ああした時代にぶつかった私共は仕合でした、とでも言って置きましょうよ。」
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今じゃとてもとても、明治はすでに違う国。
芝居茶屋 p48〜
「芝居の初日の賑わい、これは今の方々に、御覧に入れたかった。江戸時代の面影が崩れないで、芝居茶屋が一列一帯に、花のれんをかけ、高さ三尺の「明日行灯(あすあんどう)」が出る、吊看板が出る、鳥居の絵看板を、見物の群れで黒山。芝居の前は人波ですから、茶めし餡かけの屋体が出る賑い、縁日以上であって、木戸芸者(男)が役者の声色をつかう。黒縮緬の衣装に、緋縮緬の襦袢、今のマネキンはこれで、役者の仮声(こわいろ)で客を招きます。初日はというと、一日がかりで二幕ぐらいしか観られない。灯がついてから一幕、夜一幕、といって怒りもしない客は温和(おとな)しかったもので、… もっとも初日はロハでした。芝居が始ってから、芝居町は活気づき、何ともいえない、花やかな浮立った心持ちになるんですが、あれでなくっちゃァ、米の値を忘れ、銭勘定を忘れ、ただモー芝居に、身も魂も打込んでしもうといった見物、アスコまで誘い入れないと、芝居は繁昌しないと思います。
芝居が刎ねると芝居茶屋の二階が賑かとなり、提灯が輝いている。その間はお客は芝居茶屋の二階で御膳が出て一杯傾け、御飯を喫(ぱ)くついてお帰りとなる。一座によっては芸妓を呼ぶ、役者を招く、とても遊興気分がたんまりただよって気保養となりのんびりとした心にもなったものです。芝居茶屋でも、大茶屋の豊泉、中菊などとなると、料理番が抱えてあって、料理茶屋跣足(はだし)でした。女連はことにこの芝居情調に、心も有頂天ですから、芝居茶屋で、幕合のお化粧、贅沢な向は、幾度もお着替えなんです。深川木場あたりの、大家の寮から船で山谷へ漕がせて、芝居茶屋へ陣取る。三日も前から一睡もしない。芝居を観ない内から、眼が脹れぼったいなんかという騒ぎ。アノまた芝居茶屋から替草履で、劇場内へ若衆に案内されるというのがいい心持ちでした。一勇斎国芳の絵に、梅屋の賛が、
幕開きのしらせにいそぐ替草履 こみ合ふ客につつかけの客
福草履みたいな、鼻緒の太いのを、替草履といいますが、アレを突懸けて、人を掻き分け、若衆の跡から場へ行く心持ちは、今じゃア トモテ味われません。
ソコで芝居茶屋から帰りが、イザお立で、茶屋の若衆がソノ茶屋の提灯で、前申した「薮」のところまで、送って来るのが、お定法となっています。よい心持と酔って、春の夜の月影を踏み送られる味ったら現今(いまごろ)較べるものがありません。コノ「薮」まで若衆が送るということを知らない人が多いでしょう。ああした時代にぶつかった私共は仕合でした、とでも言って置きましょうよ。」
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今じゃとてもとても、明治はすでに違う国。
posted by Fukutake at 12:21| 日記