2021年12月15日

12月15日

「「今日一日」のヒント」心を癒す365日 へーデルデン編 町沢静夫訳 知的いきかた文庫 三笠書房 

12月15日  p355〜

 「壮大な交響曲もたったひとつの音符から始まる。 プリシラ・ヤング・プラット

 ものごとに取りかかるのがとても難しいことがある。やりたくないことを遅らせたり、挑戦するのを恐れたりする。時には地下室の掃除や授業で読む長い本のように、仕事の膨大さに圧倒されることもある。
 だがちょっと考えてほしい。ベートーベンが第九交響曲を作曲する際、楽器と合唱の音符が入り交じって何て複雑なんだろうと考えていたら、作曲に取りかかることができただろうか? ベートーベンは圧倒されたりしなかった。座って短い旋律を書きとめた。そしてひとつ、またひとつと旋律をつなげていった。作曲には何ヶ月もかかったが、一度にひとつずつ旋律をつなげて行くことでやりとげたのだ。
 自分の前にある仕事がどんなものでも同じだ。一歩一歩前進することで次に進むことができる。本を1ページ読むことから始める。あるいはがらくたの箱をひとつ、地下室の外に運び出すことから始めるのだ。やらなければいけないのはそれだけだ。ほとんどそれだけで、残りは勝手にあとからついてくる。秘訣は始めることだ。

今日は何をしなければならないのだろうか? また、どんなふうに始めればいいのだろうか?」

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とにかく手をつけよう
posted by Fukutake at 07:56| 日記

哲学 vs 政治 語義矛盾

「プラトン W ー 政治理論ー」田中美知太郎 著 岩波書店刊行

第一章 哲学と政治の間の近さと遠さ
哲学は政治に介入しうるか p107〜

 「プラトンの考えていた哲学は、彼の哲人政治の提唱においても知られるように、政治と一つになる一面をもつものであった。しかしそれは『国家』第五巻で多大の躊躇をもって最初の提言が公にされるに当たって、プラトン自身が認めなければならなかったように、おそよ非現実的な妄想として一般に嘲笑されるだけのものであった。かれはそれを女子にも平等に教育をあたえること、婦人子供を公有にすべきことの二つの突飛な提言に次いで、第三の大浪として説得の至極困難なもの、容易に乗り切ることのできないものとして語っている。政治の実際から見れば、哲学と政治を一つにするなどということは、天使と悪魔を結婚させようとするような暴挙としか考えられなかったであろう。しかしプラトンも政治の実際については青年時代から既にいろいろ経験をして来ているのであるから、その提案もそれらの事情を充分承知の上でのそれであるとしなければならないのではないか。

  哲学している者というのは、同じ仕方同じあり方を常住不断にしているものに接触の出来る者がそれであり、それが出来ずに、千変万化する雑多なうちにさ迷うような者は哲学の徒ではないとするなら、そもそもそのどちらを市民国家の指導者とすべきであろうか(第六巻)

 という簡単な問いが一応の出発点となる。何の変哲もない問いとして受けとられるかも知れないが、ここでは常住不断のイデアと千変万化する生成界の多とが哲学の意味を決めるために前提とされていることが知られるだろう。そして、国政の指導者となるものを、この意味での哲学の有無によって決めようとする試みが既になされようとしているのである。つまり国政の指導ということは既にこの問いにおいてイデアの認識に結びつく形で考えられていると言わなければならない。この問いはプラトンによっては何気ない当然の問いであったにしても、イデアの認識なとということが実際の政治に何の関係があるのかという、かのアリストテレス的な疑問を招くものと見られるだろう。しかしプラトン自身はこれに対して、

  美とし正としまた善とするものについて、個々の現実の法規を、制定の必要があれば制定し、現行のものでよければこれを守って保全するのには、それぞれ真実にあるところのもの(真実在)の知をそれこそ本当に奪われてしまっていて、心魂のうちに模範となるべき明々白々のものを一つももたず、…仰いでこの真実この上なきものを望見し、ことあるごとにいつもこれを参照し、観察を出来るだけ精確にすることなしには出来ない。

 ことであって、それはもう人にものの見張りをさせることが出来ないのと同じであると言って、真実在たるイデアの知が国政の上に不可欠なものであることを力説する。「ソクラテスの弁明』のソクラテスは、善美正などについての人びとの無知をきびしく批判し、アテナイの実際政治にかれ自身の哲学を介入させようとして殺された。プラトンもまたソクラテスのその志をついで政治の場へ哲学を介入を主張しようとしているとも見られるだろう。愛智としての哲学にとって、所求の智はその生命なのである。これを守って無智と戦うことは徒の使命なのだとも言えるだろう。」

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posted by Fukutake at 07:54| 日記

修善寺物語

「岡本綺堂随筆集」千葉俊二編 岩波文庫 2007年

修善寺物語ー明治座五月興行ー p306〜

 「この脚本は『文芸倶楽部』の一月号に掲載せられたもので、相変らず甘いお芝居。頼家が伊豆の修善寺で討たれたという事実は、誰でも知っていることですが、この脚本に現われたる事実は全部嘘です。第一に、主人公の夜叉王(やしゃおう)という人物からして作者が勝手に作り設けたのです。
 一昨々年(さきおととし)の九月、修善寺に一週間ばかり遊んでいる間に、一日修善寺に参詣して、宝物を見せてもらったところが、その中に頼家の仮面というものがある。頗る大きいもので、恐らく舞楽の面(おもて)かと思われる。頼家の仮面(めん)というのは、頼家所蔵の面という意味か、あるいは頼家その人に肖(に)せたる仮面か、それは判然(はっきり)解らぬが、多分前者であろうと察せられる。私が滞在していた新井の主人に拠ると、鎌倉では頼家を毒殺せんと企て、窃(ひそか)に怪しい薬を侑(すす)めた結果、頼家の顔は癩病患者のように爛れた。その顔を仮面に作らせて、頼家はかくの通りでござると、鎌倉へ注進させたのもだという説があるそうですけれども、これは信じられません。

 とにかく、その仮面を覧て、寺を出ると、秋の日はもう暮近い。私は虎渓橋(こけいきょう)の袂に立って、桂川の水を眺めていました。岸には芒(すすき)が一面に伸びている。私は例の仮面の由来に就いて種々(いろいろ)考えてみましたが、前にもいう通り、頼家所蔵の舞楽の面という他には、取止めた鑑定も付きません。
 頼家は悲劇の俳優(やくしゃ)です。悲劇と仮面…私は希臘(ギリシャ)の悲劇の神などを聯想しながら、ただ茫然(ぼんやり)と歩いて行くと、やがて塔の峰の麓に出る。畑の間には疎(まばら)に人家がある。頼家の仮面を彫った人は、この辺に住んでいたのではなかろうかなどと考えてもみる。その中(うち)に日が暮れる、秋風が寒くなる。振返って見ると、修善寺の山門は真暗である。私は何とも知れぬ悲哀を感じて悄然(しょんぼり)と立っていました。その時にふと思い付いたのが、この『修善寺物語』です。

 全体、かの仮面は、名作か凡作か、素人の我々にはちっとも判りませんが、何でも名人の彫った名作でなければならぬ。その面作師(めんつくりし)というのは、どんな人であったろう。そんな事を考えている中(うち)に、白髪の老人が職人尽にあるような装(なり)をして、一心に仮面を彫っている姿が泛(うか)ぶ。修善寺の僧が泛ぶ… というような順序で、漸々(だんだん)に筋を纏めて行くうちに、二人の娘や婿が自然に現われる事になったのです。しかし作の上では、面作師の夜叉王と姉妹の桂とが、最も主要の人物として働いて、頼家は二の次になってしまいました。
 そんな訳ですから、全部架空の事実で、頼家の仮面… ただそれだけが捉まえ所で、他には何の根拠もないのです。この仮面一個が中心となって芸術本位の親父や、虚栄心に富んだ近代式の娘などが作り出される事になったので… 狂言の種を明かせばそれだけです。頼家の最後は故(わざ)と陰にしました。」

初出 明治四十四年六月「美芸画報」」
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posted by Fukutake at 07:49| 日記