2021年12月14日

奇習

「現代の民話ーあなたも語り手、わたしも語り手ー」松谷みよ子 二〇〇八年

土を喰う p149〜

 「佐々木喜善が昭和六年(一九三一)に上梓した『聴耳草子』に、土喰婆というくだりがある。この話は昭和三年の冬頃、菊地一雄御報告の十三とある。

 昔、野中に一軒の百姓家があった。其家には老母と息子が居て、息子は毎日外へ出て働いては老母を養っていた。
 或年大阪に戦争があって、息子はそれに召出されて行ったので、年寄り一人が残ってしまった。息子は何年経っても還って来なかった。村の人達も初めのうちは気に止めずに居たが、何年経っても婆様が食物を求める風がないので、如何していることかと思って行って見ると、其老婆土を喰って生きて居た。
 それで婆様の死んだ所へ御堂を建ててバクチと呼んで地神様に祀った。現在も栗橋村字太田林、前ケ口の畠中の大きなモロノ樹の根下に其祠がある。

 何故か長い間私はこの話にこだわっていた。土を喰うという衝撃的な生き方をした婆様、ひとり息子を戦争にとられ、村人にも見捨てられた苦しみがまざまざとそこにあって、いったいこれは事実なのだろうかと問いかけずには居られなかった。
 ところがこの話にめぐりあって十数年を経た一九八二年、『現代民話考・軍隊』への問いかけに島根県在住の伊野賢治さんより次のような報告をいただいた。
 
 中国。戦線に参加した人から戦後聞いた話。多分終戦が間近いごろではないかと思われるが、日本軍の或る部隊は、本隊から離れ孤立し、兵糧は断たれ援軍を待つのみであった。残りの食糧全部を兵に均等、実は上に厚く下に薄く配られたが、クーリー達(中国人の人足)には一粒の米も配給されなかった。それから数日後に食糧はなくなり、兵隊達は身動き出来ないでいる。こうした状況下にありながらクーリー達は依然元気に働いている。何故か? 不思議に思った或る兵が彼等の食べている何かを見つけた。それはぬかるみの泥土であったという。

 私は「土を喰う」という事実が、ここにもあったのかと、目をみはった。その後、茨城大学教授の岩田進午氏の「土」をめぐるインタビュー記事に出合った。牛は土を食べるという。そして人間が土を食べることについて「昔から食べているようです。ある大学の話ですが、アフリカの留学生が身体の調子を悪くしたんです。すると、押入れの中で何かゴソゴソ食べている。土を食べて居たんですね。アフリカから持ってきたふるさとの土なんです。ふるさとの土というのは、そこの風土で形成されているから、きっと身体に合うんでしょうね。ペニシリンなどの抗生物質の多くは、もともと土の中に住んでいる微生物だから、土を食べていたのは、合理的であるのですよ」と岩田氏は語っている。

 やはり、岩手の老女が土を喰っていた、というのは、まさしくあったること、だったのだ。といって、この老女の話が消えるわけではない。しかし、長い間の疑問がひとつ決着を見た思いであった。」

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posted by Fukutake at 07:42| 日記

辻斬り

「増補 幕末百話」 篠田鉱造著 岩波文庫 1996年

  江戸の佐竹の岡部さん 八十一人斬り p13〜

 「何か話せと被仰(おっしゃ)るが、別にこれぞという逸話もないが、ここに生涯に八十一人を斬った男がある。ソレを一つ聴いて貰うかね。その男は佐竹候の家来で百石取、岡部菊外という仁だ。屋敷は神田佐久間町の二十八佐竹の中屋敷(今は二百戸)からあるが昔十五軒の屋敷だ)に住んでいたが、豪胆と言おうか無茶と言おうか、人を斬るのが飯より好で、新刀(あらみ)を求めると七人斬らねば本当の斬味が分らないと言っていた。で、ツカ巻師へは取替え刀を持込む。コレは血糊でツカが腐ってしまうからだ。この仁の斬人談(ひときりばなし)はゾッとしないから、神田美倉橋脇の馬場湯(この湯明治十年頃までありました)というので意趣返しをしたという一席をお話ししましょう。事の起原(おこり)は馬場湯へ岡部が終始往くけれど、湯銭を払わないものだから、ある日馬場湯の主婦(おかみ)が木戸を突いて「馬場湯は現金というお触れでございますからお払い下さい」と言(や)った。

 岡部はこれを悉く含んで「諾(よし)、払って遣わそう」と、その日は」無難に帰り、何か意趣返しをしてやろうと考えたが、人でも斬ろうという男の考えは別だ。その夜態々(わざわざ)小塚原へ赴き、死刑囚の死体を掘出し、その腕を一本切取って帰宅に及び、これを銭湯へ容れてやろうという悪戯、湯屋こそ溜らない。ところがその腕を湯に持込むには少し長すぎるというので、台所へ往って手頸だけに斬っていると、岡部の母なる人が覗いて見て驚いた。「お前、なにお為(し)だい」、「ヘエ何、魚の餌にしますんで、コレを入れて置くと、よく聚(たか)す」と言ったそうで、…平気なものであった。
 岡部は手頸を手拭へクルクルっと包んで、翌朝馬場湯へ何喰わぬ顔をして往き、朝湯へ入ったがまだ二、三人しか来ない。その内に土地柄とて侠気(いなせ)な神田っ子連もドヤドヤ「お早う」てな事をいって入湯(はいり)に来る。岡部は例の一物を中へ沈ませて大急ぎで登(あが衣服を着換えているてえと、「ヤア大変だ、戯談(じょうだん)じゃあねえぜ、手頸が浮いてらあ」という声が湯槽から興る。「アニ脅かしゃあがる、製作品(こしらえもの)だとながしへ投り出した奴があるが、明窓(あかりまど)から通う朝の上天気の光線で照らして見るてえと、疑(まが)う方なき人間の手頸であったから、サア大変だと一同青くなって騒ぎ始めた。岡部はこれを見済してワザと驚いた風をなし、「イヤ縁起でもない、恐いこった」と言いつつ溜飲を下げて帰ってしまった。この事が評判になって馬場湯は化物湯と言って、一時寂れたそうです。
 しかし斯様な事は応報の数に洩れないものか、この人かく豪胆で無茶であったが、下谷摩利支天横町、ちょうど松坂屋の土蔵の裏の所で按摩を斬った時に、斬り損なったため、按摩が「目の見えぬものを、斬ったな、お前の家へ祟ってやるぞ」と悲しい細い声を放った。その声が耳に離れないで、終に病み付きとなり死にましたが、イヤ一種殺人(ひとごろし)の癖とでも言うのでありましょうかしら…。」

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よくもばれずに。

posted by Fukutake at 07:37| 日記