「かいつまんで言う」 山本夏彦 中公文庫 1982年(初出 ダイアモンド社 1977年)
映画「大地震」を見るp20〜
「いつぞや東京都知事選挙で、美濃部亮吉氏と争った秦野章氏は、珍しく地震に関心ある人で、選挙演説でもしばしばこれに触れ、それがマイナスになって落選したと聞く。地震は票にならないと、以後選挙ではこれに言及するものはなくなったという。…
犬は時間と空間を理解しないこと人に似てると、私は「笑わぬでもなし」のなかに書いた。主人は旅に出てその旅先で死んだと、いくら言って聞かせても犬は主人の「死」を理解しない。犬の目の前で倒れて、はじめ苦悶して、やがて息絶えて、みるみる冷たくなって見せなければ、犬は主人の死を理解しない。私たちが、地震を理解しないのはそれに似ている。私たちもまた目の前でおこらないことは、原則として理解しない。人と犬は同じ哺乳類である。人と犬がよく似た存在でないことが、どうしてあろう。
それでなければ、江東地区の住人が、日ごと麻雀やパチンコに興じて、夜ごと枕を高くして眠っていられるわけがない。江東地区の住人の運命は、東京都民の運命である。東京都民が同じく枕を高くして眠っていられるわけがわからない。
新潟の地震では火事が出なかった。人は死ななかった。ビルは傾いたが倒れなかった。マグニチュード7.5だった。
だから東京もそうだろうと、東京の住人は頼みにならぬことを頼みにする。その愚を笑ったり怒ったりするものがあるが、私はそう思わなくなった。何百回、何千回警告を発しても、専門家も素人も、江東デルタの住人も、東京都民も聞かないのは、それなりにわけがあるからだろうと思うようになった。運は天にまかせたといえば聞こえがいいが、実は私たちは他の哺乳類と共に理解しないのである。
ただ他の哺乳類と違って人は神だのみする。いま私たちは次のように祈っているところである。
地震は必ず来る。けれどもいつ来るか分からない。それなら季節は春から夏にかけて来て、冬は来ないでくれ。夏の日曜日の早朝来てくれ。
日曜の朝ならたいてい寝ている。朝早く炊事する家は今はない。亭主も子供も家にいて、都心にいない。死なばもろともである。
地震そのものの害は知れている。こわいのは火事だという。夏なら早朝でもすでに明るい。火の気は全くない。近くのどこの会社も週休二日になる。なったら地震は土曜日でもいい。ウィークデイでも早朝ならいい。
日本人のすべては、来るべき地震に備えて、ただこう思って、結局は何もしないでいる。私はそれをとがめているのではない。人はそういう存在だと、眺めているのである。
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2021年12月13日
人間というもののさが
posted by Fukutake at 11:51| 日記
虫の音(ね)
「虫の音楽家」小泉八雲コレクション 池田雅之(編訳) ちくま文庫
p180〜
「虫よ虫 鳴いて因果が尽きるなら
西洋の読者は、これは虫の境遇あるいは虫の生き様を読んだものと思われるかもしれない。しかし、たぶん女性と思われる詠み手の本当の心は、自分の悲しみの原因は前世に犯した罪の結果であり、それゆえそれから免れることはできないと嘆いているのだ。
ここに引用した詩歌は、秋に関するもので、秋の感傷を詠んだものであることがおわかりいただけるであろう。確かに日本の歌人は、秋という季節がかもし出す深い憂愁に無感動ではいられなかった。それは、祖先から受け継いてきた不思議で漠然とした苦しみの年毎の再現であり、何百万という悲しみの記憶なのだ。それゆえ、季節の色がうつろい、木の葉が舞い、虫の音が哀哭する秋は、仏教でいう無常、つまり死による別離の必然、煩悩の苦しみ、孤独の悲哀を象徴しているのである。
しかし、虫に関するこのような歌は、もともと恋慕の情を詠んだものだとしても、自然の不思議な変化 −−ありのままの純粋な自然 −−を、想像と記憶の中で呼び起こさせるものではないだろうか。日本の家庭生活や文学作品で、虫の音楽の占める地位は、われわれ西洋人にはほとんど未知の分野で発達した、ある種の美的な感受性を証明してはいないだろうか。宵祭りに、虫商人の屋台で鳴きしだく虫の声は、西洋では稀有な詩人しか感知し得ない事柄 −−悲喜こもごもの秋の美しさ、夜の妖しく甘美なざわめき、林野を駆けめぐっては魔法のように記憶を呼び覚ます木霊 −−であるが、これらは、日本の一般民衆に広く理解されているということを示してはいないだろうか。
われわれ西洋人は、ほんの一匹の蟋蟀の鳴き声を聞いただけで、心の中にありったけの優しく繊細な空想をあふれさせることができる日本の人々に、何かを学ばねばならないのだ。われわれ西洋人は、機械分野では彼らの師匠であり、ありとあらゆる醜悪なものの組み合わせの産物である人工的なものにおいて、日本人の先生であることを誇ることができよう。しかし、自然に関する知識や、大地の美と歓喜の感得という点では、古代ギリシャ人のように、日本人はわれわれを凌いでいる。だが、われわれの極端な工業化が、彼らの楽園を荒廃させ、いたるところで美を、実利、陳腐さ、低俗さ、醜悪なものに置き換えた後で初めて、われわれは、破壊したものの魅力を、悔悟の念に駆られながら豁然と理解することになるであろう。」
(Insect-Musicians (Exotics and Retrospectives, 1898))
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果たして見事に日本人は西洋人になってしまった。
p180〜
「虫よ虫 鳴いて因果が尽きるなら
西洋の読者は、これは虫の境遇あるいは虫の生き様を読んだものと思われるかもしれない。しかし、たぶん女性と思われる詠み手の本当の心は、自分の悲しみの原因は前世に犯した罪の結果であり、それゆえそれから免れることはできないと嘆いているのだ。
ここに引用した詩歌は、秋に関するもので、秋の感傷を詠んだものであることがおわかりいただけるであろう。確かに日本の歌人は、秋という季節がかもし出す深い憂愁に無感動ではいられなかった。それは、祖先から受け継いてきた不思議で漠然とした苦しみの年毎の再現であり、何百万という悲しみの記憶なのだ。それゆえ、季節の色がうつろい、木の葉が舞い、虫の音が哀哭する秋は、仏教でいう無常、つまり死による別離の必然、煩悩の苦しみ、孤独の悲哀を象徴しているのである。
しかし、虫に関するこのような歌は、もともと恋慕の情を詠んだものだとしても、自然の不思議な変化 −−ありのままの純粋な自然 −−を、想像と記憶の中で呼び起こさせるものではないだろうか。日本の家庭生活や文学作品で、虫の音楽の占める地位は、われわれ西洋人にはほとんど未知の分野で発達した、ある種の美的な感受性を証明してはいないだろうか。宵祭りに、虫商人の屋台で鳴きしだく虫の声は、西洋では稀有な詩人しか感知し得ない事柄 −−悲喜こもごもの秋の美しさ、夜の妖しく甘美なざわめき、林野を駆けめぐっては魔法のように記憶を呼び覚ます木霊 −−であるが、これらは、日本の一般民衆に広く理解されているということを示してはいないだろうか。
われわれ西洋人は、ほんの一匹の蟋蟀の鳴き声を聞いただけで、心の中にありったけの優しく繊細な空想をあふれさせることができる日本の人々に、何かを学ばねばならないのだ。われわれ西洋人は、機械分野では彼らの師匠であり、ありとあらゆる醜悪なものの組み合わせの産物である人工的なものにおいて、日本人の先生であることを誇ることができよう。しかし、自然に関する知識や、大地の美と歓喜の感得という点では、古代ギリシャ人のように、日本人はわれわれを凌いでいる。だが、われわれの極端な工業化が、彼らの楽園を荒廃させ、いたるところで美を、実利、陳腐さ、低俗さ、醜悪なものに置き換えた後で初めて、われわれは、破壊したものの魅力を、悔悟の念に駆られながら豁然と理解することになるであろう。」
(Insect-Musicians (Exotics and Retrospectives, 1898))
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果たして見事に日本人は西洋人になってしまった。
posted by Fukutake at 11:45| 日記