2021年12月06日

芙美子の京都

「下駄で歩いた巴里」 林芙美子紀行集 岩波文庫

京都 p280〜

 「…私はまた一人で祇王寺と法然院へも行ってみた。銀閣寺へは和尚に連れて行って貰った。銀閣寺では、和尚の世話で薄茶を戴いた。洗月亭という茶室の外では薄い雪が降っていた。
 お茶のお手前は何一つ識らないのだけれど、自然でよいといわれたので、両手をかけてのんびりと戴く。雪がやんでしまうと、もう障子越しに薄陽が射して、小鳥の影が畳に走って風色がなかなか愉しかった。
 義政公の飯器だったというめでたい菓子器から干菓子を戴いたが薄茶に溶けてゆくようなうまい干菓子であった。お手前は葉茶屋の主人とかで、男の紋つき姿もいいものである。

 お茶が済むと、苔の深い庭を見てまわったが、庭は法然院とか祇王寺の方が好きだった。白河砂を敷いた小径も美しいが、苔の温かさにはかなわぬ。苔はまるで厚いタッピイのようだった。薄緑、黒緑、黄緑、灰緑、色々な苔の姿だ。来てよかったと思う。了入(りょうにゅう)の茶碗とか、義政公の飯器とか云われても猫に小判で、私は庭の苔の美しさの方が心に浸みて来るのであった。義政公の茶室跡だったろうと云う相君泉のある丘へも登ってみた。泉の水は甘くて快い舌ざわりであった。帰りは和尚たちと、疎水のほとりを歩いてみた。京都は隠れて住むにはいい処だと思う。

 裏千家のお茶では川那辺さんというひとの家へ連れて行って貰った。聖護院西町のめだたない家造りだけれども、小さい庭のすっきりと利用されたその茶室は、なごやかで居心地がよかった。奥さんは四十年配のひとだったが、着物、帯、足袋に至るまで、立派な趣味のひとで、かつて、こんなにすっきり落ちつた好みのひとを私はみたことがない。帯をひくく締めて羽織もないさっぱりした姿だった。なつめを包んだおらんだかんとんという渋い美しいきれを地に見せて貰った。
 京都を歩くと入口の狭い奥行きの深い家が多い。商家なども、薄暗い帳場の後にすっきりした庭を持っていて、その庭の樹木が鮮かな色をしているのなど、思わず立ちどまって見惚れてしまう。…」
(二月十日)
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posted by Fukutake at 07:37| 日記

胡人の商人

「長安の春」 石田幹之助 講談社学術文庫

長安菩提寺の僧、胡人に「宝骨」を売る話 p80〜

 「長安の平康坊に菩提寺という寺がある。李林甫(りりんぽ)の宅がその東隣にあったので李氏はいつも誕生日にはこの寺の僧を自邸に招いて斎(とき)を設け嘆仏*(たんぶつ)のことを行った。かつてその際一僧が鞍一具をほどこされ、それを売って七万銭を得たことがある。数年の後、李氏邸における嘆仏のおり、別の僧が極力主人の功徳を讃えて厚親を獲んと欲したが、長さ数寸の朽(くさ)った釘のごときものをもらって大いに失望した(もっともこれは綵篚(さいひ)に収め香羅(こうら)の帕籍(ばくせき)に包んで丁重に扱ってあった)。そこで彼は慙惋(ざんえん)数日、やはり大臣は己の欺くものを容れないと悟って西市へ持って行って商胡に見せた。商胡はこれを見て驚いていう、「上人、どうしてこれを手に入れましたか。必ずこれを売るに価をつけ損じますまいぞ」と。そこで試みに百緡(みん)を求めると胡人は大笑して「それどころか」という。よってせいぜい高くいってみたつもりで五百緡というと、胡人は「これは千万緡の値打ちがある」といってそれだけの金を出した。僧がなんというものだと尋ねたらこれは「宝骨」というものだと答えたという。

 この話は段成式の『酉陽雑俎』続集の巻五に収めた「京洛寺塔記」に『釈門故事』に載するところとして揚げてある。『太平広記』の巻四百三にも、「宝骨」と題して転載してある
 (ただしその間多少文字に差異があり、かつ『広記』には重大な誤脱がある。筆者は『太平広記』の版本中最善なるものと称せられる明の談氏(ト(がい))の刻本を始め同じく許氏(自昌(じしょう))の刊本、清の黄氏(晟(せい))の刊本、上海掃葉山房の石印本等を参照したが、諸本皆この誤脱を犯している。すなわち『酉陽雑俎』続集中の『胡商驚いて曰く、上人安(いずく)んぞ此の物を得たるや、これだけならばまだいいが、この部分が後に揚げる第十九の話の文中に紛れ込んでいるために、その方の話の筋をひどく解しにくくしている。これは今まで誰も指摘した人がないから念のために書き添えておく)。

 平康坊は長安の左街、東市の西北にあたり、名家の邸宅や有名な仏刹のあったところとしてもなだかいが、首都第一の歌吹海(かすいかい)にして、美妓の淵薮(えんそう)として著聞しているところである。」

嘆仏*: 仏の功徳をほめたたえる催し

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posted by Fukutake at 07:33| 日記