「徒然草」
第二百十二段
「秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分(わ)からざらん人は、無下(むげ)に心うかるべき事なり。」(「徒然草」岩波文庫)
「秋の月は限りもなくすばらしいものである。いつでも四季を通じて月といえばこんなものだときめてかかり、他の季節との違いを思う至らないような人は、まったく情けないと言う穂かはない。」(イラスト古典全訳「徒然草」)
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月見る月はこの月の月。
米ソの愚策
「宮ア市定全集 18 アジア史」 岩波書店
朝鮮戦争とその後の世界 p420〜
「アメリカはソ連との取引により、三十八度線以北をソ連にゆだね、その南に大韓民国をつくって排日色のもっとも鮮明な李承晩を送り込んで大統領にしたのである。個人でも民族でも、和解を勧めることはきわめて難事であるが、憎悪を教えるのはこれほど容易なことはない。アメリカの韓国指導はその点で大いに成功したかに見えた。ところがそこへ起ったのが朝鮮戦争である。…アメリカは日本基地から兵力を輸送することによって、かろうじて韓国の劣勢を挽回し、やがて北朝鮮を北部国境まで追いつめた。ここでアメリカははじめて従前の韓国指導の方法が誤りであったことを悟ったのである。やがて李承晩が学生運動の総攻撃をあびた時、アメリカはこれを助けようともせず、ハワイへ連れもどして隠居させたのであった。
この戦争の最後の場面で、アメリカ軍が北朝鮮を席巻した時、中国の人民義勇軍が不意に鴨緑江を渡ってアメリカ軍に攻撃を加えて敗退させた。米司令官マッカーサーは満洲の中国基地に爆撃をおこなうことを唱えたが、米政府はさすがにこれを承諾せず、かえってマッカーサーを解任した。やはりアメリカには軍部に対する文民統制が行われてると、世界各国を安堵させ、たのもしく思わせたのであったが、この戦争の跡始末のためとはいえ、将軍アイゼンハワーが大統領に選ばれたのは、何かしら不吉な印象を世界に与えた。事実それをなんとも感じないアメリカ人の感覚が、この前後から狂い出したと思われるのである。…
一九六四年八月、アメリカ軍感がトンキン湾において北ベトナムから魚雷攻撃を受けたという名目で、北ベトナム領内にたいする空爆が開始された。以後十年間、宣戦なき戦争が継続するが、これは主としてベトナム人民同士のいわれなき流血によって戦われたのであった。一九七三年になってパリ会議による停戦協定が結ばれたが、この間におけるアメリカ側の有形無形の損害ははかり知れないものがあった。
大戦後の世界不安の最大の原因は、アメリカとソ連軍閥の横車にあるといえる。この二国が外戦によって敗れるか、あるいは国内に革命が起こるかしなければ、真の平和はきそうにないと思われる。もしもアメリカがベトナム戦争を、真に敗戦であったと謙虚に反省するならば、一つの原因は取り除かれたことになるのだが 、最後に日本そのものの真の姿はどんなものなのであろうか。徳川時代の日本は、侍と町人と百姓の世界であった。明治以降、侍は文武官僚となって政治を動かした。軍人の階層は武士道ということを唱えた。敗戦の結果、軍人はいちおう消滅して文人官僚が残った。それは武士道なき官僚である。つぎに町人は商工業者となって、富国政策を担当した。敗戦後この階層は、いわゆる経済的高度成長の波に乗って、日本を代表する顔となったが、そのがめつさは世界中から嫌われ者になりそうである。徳川時代の百姓はある程度政治によって保護を加えられていたが、明治以降、いつも富国強兵の犠牲とされたのはこの階層である。戦争があれば狩り出されるのは多く農村の青年である。経済界に不況が起こればそのしわ寄せをこうむり、もっとも大きな波をまともにうけるのもこの階層である。一方好景気の恩恵はもっとも遅れて、もっとも少なく与えられるのである。農村は次第に衰亡するが、これとともに本当に日本を支えてきた百姓道、農民的人生観も失われようとしている。」
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成功と見えた裏では、日本が日本でなくなる危機。
朝鮮戦争とその後の世界 p420〜
「アメリカはソ連との取引により、三十八度線以北をソ連にゆだね、その南に大韓民国をつくって排日色のもっとも鮮明な李承晩を送り込んで大統領にしたのである。個人でも民族でも、和解を勧めることはきわめて難事であるが、憎悪を教えるのはこれほど容易なことはない。アメリカの韓国指導はその点で大いに成功したかに見えた。ところがそこへ起ったのが朝鮮戦争である。…アメリカは日本基地から兵力を輸送することによって、かろうじて韓国の劣勢を挽回し、やがて北朝鮮を北部国境まで追いつめた。ここでアメリカははじめて従前の韓国指導の方法が誤りであったことを悟ったのである。やがて李承晩が学生運動の総攻撃をあびた時、アメリカはこれを助けようともせず、ハワイへ連れもどして隠居させたのであった。
この戦争の最後の場面で、アメリカ軍が北朝鮮を席巻した時、中国の人民義勇軍が不意に鴨緑江を渡ってアメリカ軍に攻撃を加えて敗退させた。米司令官マッカーサーは満洲の中国基地に爆撃をおこなうことを唱えたが、米政府はさすがにこれを承諾せず、かえってマッカーサーを解任した。やはりアメリカには軍部に対する文民統制が行われてると、世界各国を安堵させ、たのもしく思わせたのであったが、この戦争の跡始末のためとはいえ、将軍アイゼンハワーが大統領に選ばれたのは、何かしら不吉な印象を世界に与えた。事実それをなんとも感じないアメリカ人の感覚が、この前後から狂い出したと思われるのである。…
一九六四年八月、アメリカ軍感がトンキン湾において北ベトナムから魚雷攻撃を受けたという名目で、北ベトナム領内にたいする空爆が開始された。以後十年間、宣戦なき戦争が継続するが、これは主としてベトナム人民同士のいわれなき流血によって戦われたのであった。一九七三年になってパリ会議による停戦協定が結ばれたが、この間におけるアメリカ側の有形無形の損害ははかり知れないものがあった。
大戦後の世界不安の最大の原因は、アメリカとソ連軍閥の横車にあるといえる。この二国が外戦によって敗れるか、あるいは国内に革命が起こるかしなければ、真の平和はきそうにないと思われる。もしもアメリカがベトナム戦争を、真に敗戦であったと謙虚に反省するならば、一つの原因は取り除かれたことになるのだが 、最後に日本そのものの真の姿はどんなものなのであろうか。徳川時代の日本は、侍と町人と百姓の世界であった。明治以降、侍は文武官僚となって政治を動かした。軍人の階層は武士道ということを唱えた。敗戦の結果、軍人はいちおう消滅して文人官僚が残った。それは武士道なき官僚である。つぎに町人は商工業者となって、富国政策を担当した。敗戦後この階層は、いわゆる経済的高度成長の波に乗って、日本を代表する顔となったが、そのがめつさは世界中から嫌われ者になりそうである。徳川時代の百姓はある程度政治によって保護を加えられていたが、明治以降、いつも富国強兵の犠牲とされたのはこの階層である。戦争があれば狩り出されるのは多く農村の青年である。経済界に不況が起こればそのしわ寄せをこうむり、もっとも大きな波をまともにうけるのもこの階層である。一方好景気の恩恵はもっとも遅れて、もっとも少なく与えられるのである。農村は次第に衰亡するが、これとともに本当に日本を支えてきた百姓道、農民的人生観も失われようとしている。」
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成功と見えた裏では、日本が日本でなくなる危機。
posted by Fukutake at 09:07| 日記