「参考書や英会話本に載っている『笑う英会話2』」
草下シンヤx北園大園 彩図社 より
1 The suspect had a round face.
容疑者は丸顔である。
2 He died from eating too much.
彼は食べすぎがもとで死んだ。
3 Where were your eyes that you should not have seen the post?
あの柱が見えなかったとは、眼がいったいどこについてたのか。
4 Ed slipped on a banana peel.
エドは、バナナの皮ですべった。
5 The secretary keeps losing things.
その秘書はしょちゅう物をなくす。
6 If I didn't have such fat legs, I would wear a French cut, too.
もしこんな大根足じゃなかったら、私もハイレグを着るのに。
7 When I heard of his engagement, I was smiling on the outside, crying on the inside.
彼の婚約を聞いたとき、私は顔で笑って心で泣いていた。
8 A heavily made-up woman appeared.
厚化粧の女が現れた。
9 The bird had scarcely escaped when she was recaptured.
その鳥は逃げるなや、またつかまった。
10 You should not have any cake.
I will not make you have any cake.
You must not have any cake.
お前に菓子など食べさせない。
11 The car ran down the policeman.
その車は警官をひいた。
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受験勉強時代を思い出しました。
人間とは
「戦国策」 近藤光男 講談社学術文庫 2005年
上に立つ人物 p192〜
「1 魏の文公
文侯は虞人(猟場を管理する役人)と猟に出かける期日を約束していた。その日、酒を飲んで楽しんでいるうち雨が降って来た。しかし、文侯は出かけようとする。側近の者たちが、「今日はお酒を召し上がってお楽しみのところへ、雨も降っております。公にはどちらにおいでになるのですか」と言うと、文侯は言った。「私は虞人と猟をする約束をしている。いくら楽しくても、一度は約束どおり会いに行かねばなるまい」と。こう言って出かけて行き、自身で取りやめを告げた。魏はこういうことから強くなっていったのである。」
(二八二 魏上 文侯4)
魏の文公は、孔子の弟子子夏を師とし、賢者を礼遇し、この話の通り謙虚な態度で魏国の全盛時代を築いた。
「2 訑者*(たんしゃ)の言
燕王が蘇代(そだい)に言った。「寡人(私)は、訑者(うそつき)のまくし立てるたわごとが、ひどくしゃくに触る」と。蘇代が答えてこう言った。「私の故郷の周では、土地柄といたしまして、仲人を卑しむ風がございます。両方を誉めそやすからでございます。男の家に行って『彼女は美人です』と言い、女の家に行って『彼は金持ちです』と申します。しかしながら、周の風習といたしまして、自分で直接妻をめとることはいたしません。また処女は、仲人がいなくては、年老いても嫁がぬままとなりましょう。また仲人を差し置いて自分をひけらかしてみても、失敗に終わって売れ残ります。順調に運んで失敗がなく、買い手がついて話がまとまるには、仲人に頼るほかないのです。それにまた、物事は、権謀によらなくては成功せず、勢いに乗じなくては成就しないものです。およそ、依頼人に、居ながらにしてできあがった結果を受け取らせる者は、うそつきをおいて他はございません」。王は「なるほど」と言った。」
(四四三 燕上 昭王7)
訑者* 欺き偽りを言う者
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山本夏彦の箴言のよう。
上に立つ人物 p192〜
「1 魏の文公
文侯は虞人(猟場を管理する役人)と猟に出かける期日を約束していた。その日、酒を飲んで楽しんでいるうち雨が降って来た。しかし、文侯は出かけようとする。側近の者たちが、「今日はお酒を召し上がってお楽しみのところへ、雨も降っております。公にはどちらにおいでになるのですか」と言うと、文侯は言った。「私は虞人と猟をする約束をしている。いくら楽しくても、一度は約束どおり会いに行かねばなるまい」と。こう言って出かけて行き、自身で取りやめを告げた。魏はこういうことから強くなっていったのである。」
(二八二 魏上 文侯4)
魏の文公は、孔子の弟子子夏を師とし、賢者を礼遇し、この話の通り謙虚な態度で魏国の全盛時代を築いた。
「2 訑者*(たんしゃ)の言
燕王が蘇代(そだい)に言った。「寡人(私)は、訑者(うそつき)のまくし立てるたわごとが、ひどくしゃくに触る」と。蘇代が答えてこう言った。「私の故郷の周では、土地柄といたしまして、仲人を卑しむ風がございます。両方を誉めそやすからでございます。男の家に行って『彼女は美人です』と言い、女の家に行って『彼は金持ちです』と申します。しかしながら、周の風習といたしまして、自分で直接妻をめとることはいたしません。また処女は、仲人がいなくては、年老いても嫁がぬままとなりましょう。また仲人を差し置いて自分をひけらかしてみても、失敗に終わって売れ残ります。順調に運んで失敗がなく、買い手がついて話がまとまるには、仲人に頼るほかないのです。それにまた、物事は、権謀によらなくては成功せず、勢いに乗じなくては成就しないものです。およそ、依頼人に、居ながらにしてできあがった結果を受け取らせる者は、うそつきをおいて他はございません」。王は「なるほど」と言った。」
(四四三 燕上 昭王7)
訑者* 欺き偽りを言う者
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山本夏彦の箴言のよう。
posted by Fukutake at 08:14| 日記
2021年12月23日
陽明学
「伝習録 −「陽明学」の真髄−」 吉田公平 タチバナ教養文庫 平成七年
王陽明の慧眼
P220〜
「朱本思がおたずねした、「人間には自在にはたらく霊明があるからこそ良知があるのでしょうが、それのない草木瓦石の類にも良知はあるのでしょうか」と。
先生がいわれた、「人間の良知がとりもなおさず草木瓦石の良知なのである。もし、草木瓦石は、そのように価値づける人間の良知がなかったら、草木瓦石となることはできない。単に草木瓦石だけがそうなのではない。天地は、そのように価値づける人間の良知がなかったら、やはり天地となることはできない。いったい、天地万物は人間ともともと一体のものなのだ。最も精密にはたらくのが人間の霊明にはたらく心なのである。風雨露雷・日月星辰・禽獣草木・山川土石の類は、人間ともともと一体なのだ。だからこそ五穀や禽獣の類は、みな人間を養うことができるし、薬石の類はみな病気を治すことができるのである。それはひとえに一気を同じくしているからこそちゃんと通じあえているのだよ」と。」
p227〜
「またいわれた、「目には、みられるものの色が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆる客体がもつ色をその実体としてみるのである。耳には、きかれる音の声が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆる客体がもつ声をその実体としてきくのである。鼻には、かがれるものの臭が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆるものがもつ臭をその実体としてかぐのである。口には、食べられるものの味が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆるものがもつ味をその実体として味わうのである。心には、主客の感応関係の是非がそなわっているわけではなく、この世界のあらゆるものが示す感応関係の是非を、その実体として判断するのである」と」
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「ひらたくいえば、たとえば視る前に赤なら赤ときめてかかってみるのではなく、そのような先入見からまったく自由になって(このことをここでは「体無し」といっている)率直平心に対象を観察すること。」(吉田注)
王陽明の慧眼
P220〜
「朱本思がおたずねした、「人間には自在にはたらく霊明があるからこそ良知があるのでしょうが、それのない草木瓦石の類にも良知はあるのでしょうか」と。
先生がいわれた、「人間の良知がとりもなおさず草木瓦石の良知なのである。もし、草木瓦石は、そのように価値づける人間の良知がなかったら、草木瓦石となることはできない。単に草木瓦石だけがそうなのではない。天地は、そのように価値づける人間の良知がなかったら、やはり天地となることはできない。いったい、天地万物は人間ともともと一体のものなのだ。最も精密にはたらくのが人間の霊明にはたらく心なのである。風雨露雷・日月星辰・禽獣草木・山川土石の類は、人間ともともと一体なのだ。だからこそ五穀や禽獣の類は、みな人間を養うことができるし、薬石の類はみな病気を治すことができるのである。それはひとえに一気を同じくしているからこそちゃんと通じあえているのだよ」と。」
p227〜
「またいわれた、「目には、みられるものの色が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆる客体がもつ色をその実体としてみるのである。耳には、きかれる音の声が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆる客体がもつ声をその実体としてきくのである。鼻には、かがれるものの臭が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆるものがもつ臭をその実体としてかぐのである。口には、食べられるものの味が実体としてそなわっているわけではなく、あらゆるものがもつ味をその実体として味わうのである。心には、主客の感応関係の是非がそなわっているわけではなく、この世界のあらゆるものが示す感応関係の是非を、その実体として判断するのである」と」
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「ひらたくいえば、たとえば視る前に赤なら赤ときめてかかってみるのではなく、そのような先入見からまったく自由になって(このことをここでは「体無し」といっている)率直平心に対象を観察すること。」(吉田注)
posted by Fukutake at 14:35| 日記